アオサギを議論するページ

キツネとサギ

今回は久々に童話の紹介です。タイトルは「キツネとサギ」。このように動物名がふたつ並ぶのはイソップの特徴ですね。そのイソップ童話ですが、私はイソップというとその内容が教訓を含んだものばかりなので、てっきり中世のキリスト教世界で作られたものとばかり思っていました。ところが、イソップ童話の起源は紀元前6世紀まで遡るのだそうです。場所はギリシャ。ペルシャ戦争よりもさらに前、ちょうどピタゴラスの定理とかが考えられていた頃のことだったのですね。そんなに古くからある話なので、話の内容も作られた当時の原形が必ずしも保たれてはいません。「キツネとサギ」の話にしても、「キツネとツル」だったり「キツネ とコウノトリ」だったりと様々なバリエーションがあります。キツネとういうのはキャラクターが際立ちすぎて他に変え難いということでしょうか。一方、キツネの相手は誰でも良かったのでしょうね。少なくともあの形をした鳥であれば。ただ、ここで「キツネとサギ」とした場合のサギの表記はEgretでなくHeronになるので、サギはアオサギのことと解釈して構わないと思います。私もそれがアオサギでなければここで紹介する意味がなくなってしまいますから。

さて、それでは寓話の中身のご紹介。

「キツネとサギ」

むかしむかし、あるところにキツネとアオサギが住んでいました。あるときキツネはアオサギを食事に誘いました。アオサギは喜んでキツネの家に出かけました。「アオサギさん、いらっしゃい。さあ、一緒にスープを飲みましょう。」そして、キツネは平たいお皿にスープを満たして持ってきました。ところが、アオサギはくちばしが長いものですからスープを一滴も飲めません。キツネは一人でペロペロとスープを舐めてしまいました。そこで、アオサギは言いました。「キツネさん、今日はごちそうさまでした。明日は私が食事に招待しますよ。」翌日、キツネは喜んでアオサギの家に出かけました。「キツネさん、いらっしゃい。 さあ、一緒にいただきましょう。」そして、アオサギは首の狭まったボトルにご馳走を入れて持ってきました。アオサギはボトルの中に首を入れ、中のカエルやドジョウをおいしそうに食べました。ところが、キツネはボトルの首が狭すぎるものですから何も食べられません。結局、キツネはボトルの外側をペロペロと舐めることしかできませんでした。おしまい。

いかがでしょう? 教訓的な意味はさておき、アオサギの形態的な特徴がよく表れている内容ではないでしょうか。

ところで、上に貼った絵はこの寓話の状況を見事に描いています。これはアントワープの画家フランス・スナイデルスが17世紀前半に描いた作品で、ご覧のようにここに描かれているのはまさしくアオサギです。それにしても、この時期にこれほど実物に忠実に、しかも自然なフォルムのアオサギが描かれていたとは驚きです。

スナイデルスはこのモチーフがよほど気に入ったのか、ほとんど同じ構図の絵をもう一枚描いています(左の絵)。一見、同じように見えますが、右端のアオサギの姿勢がちょうど反対向きになってます。ようく見ると、マガモもいませんし背景もずいぶん変えられています。それでも、主役のキツネとアオサギ、それにボトルの描かれ方は上の絵とほとんど同じ。この部分は彼の中でも完璧な構図だったのでしょうね。絵の描かれた順番は分かりませんが、上の絵のほうがいくぶん丁寧に描き込まれている感じはします。1枚目の絵はニューヨークのロチェスター大学に、2枚目の絵はストックホルムのナショナルミュージアムに所蔵されているようです。一度、実物を拝見したいものです。

目の不思議

鳥の目というのは知れば知るほど不思議です。遠くのものと近くのものに同時に焦点を合わせられたり、人には見えない紫外の色が見えていたり、とても人間が太刀打ちできるような代物ではありません(参考:「アオサギの目」2006年2月21日)。調べれば、他にもまだまだ知られざる能力が隠されていそうです。そんな鳥の目ですが、今回はそういった外見で分からない不思議でなく、目に見える不思議を書いてみたいと思います。

普段、アオサギは目つきが悪いと思っていた方は、右の写真をご覧になればちょっと意外な感じがするのではないでしょうか? あれ、こんな大きな目をしていたかな、と。これは巣立ち前のヒナですが、この場合、ヒナか成鳥かというのは関係ありません。ともかく、ずいぶんつぶらな瞳です。人によってはこのように斜め後ろの角度から見るアオサギが一番好きだという方もいらっしゃるようですね。たしかにこんなアオサギを見てしまうとますますファンが増えそうです。

ところが、じつはこれトリックだったのです。左の写真は同じアオサギが少しこちら向き加減になったところ。黒い瞳孔はずいぶん小さくお馴染みのアオサギの目になっています。これが本来の見え方です。先ほどのアングルでは、瞳孔の色が中で屈折して角膜いっぱいに映るため、あのようなつぶらな瞳に見えたのですね。

ただ、瞳孔の大きさについて言うと、アオサギの虹彩は猫の目ほどではないにしろかなり大きく伸縮します。周りが明るければ左の写真のようなアオサギらしい?目になりますが、暗いところではそうとう大きく見開かれます。普段、明るい環境下であの爬虫類っぽい目しか見たことがなければ、薄暮時のアオサギに是非会ってみてください。それまで抱いていたアオサギのイメージがずいぶん変わると思いますよ。

目のことでついでにもうひとつ。右の写真、どことなくへんちくりんな感じがしませんか? でもどこが変なのでしょう? これも先ほどと同じく巣立ち前のヒナです。ヒナなので頭の羽毛が乱れているのは仕方ありません。真っ正面を向いているので素っ頓狂な顔つきに見えますが、これもアオサギ生来のもの。それでもおかしいのは、左右の目で瞳孔の大きさが異なっているからです。写真を注意深くご覧になれば分かるかと思いますが、これじつは左側から日が照っていて右側は陰になっているんですね。明るいほうの瞳孔は収縮し、暗いほうの瞳孔は開いているわけです。

これって当たり前のことなのでしょうか? 気になったので人間でもそうなるのかなと調べてみました。自分の顔の真ん中に衝立を立て、左右の明るさを変え、瞳孔の大きさを鏡で見比べてみたわけです。で、あまり違うようには見えません。私の目がおかしいのでしょうか? まあ、サギの目と同じと考えること自体、間違っているような気もしますが。考えてみれば、人間の目は正面についていて両目はいつもだいたい同じものを見ているわけですから、片方が明るくて片方が暗いという状況はほとんど無いのかもしれません。進化の過程で、目が側面から正面に移動してくるにつれ、左右の目を別々に調節する機能は必要がなくて退化してしまったのでしょうね。と、これは飽くまで私の適当な思いつきです。いずれにしても、人間の目は鳥には到底敵わなそうです。

降り止まぬオタマジャクシ

オタマジャクシが空から降ってきたと全国的に話題になったのは去年の6月でした。あれから1年。騒動はまだ完全には収まっていないようです。6月1日付けの下野新聞に昨年同様の記事が載っていました。

そもそも未だにこのことがニュースになるのは、事の真相に関して世間的な評価が確定していないからだと思います。マスコミはあれやこれやの専門家に尋ねますが、専門家といえども実際に現場を目撃していないわけですから断定的な結論を出せるはずはありません。おそらく、空を飛んでいる鳥がオタマジャクシを吐き戻すのを実際に目撃 したという人が現れない限り、この件は今後もうやむやな状態が続くでしょうね(今回の件とは別に、飛び立ったサギ類が餌を吐き出すのを目撃した事例はあります⇒ 岩手日報 2009年6月18日)。

とはいえ、私の中ではアオサギ、もしくは他のサギ類が犯人だろうというのはほぼ確定しています。百歩譲っても鳥類のいずれかであることは間違いないだろうと。

鳥の仕業だとする説は当初からありました。しかし、鳥のことに詳しそうな人の中に鳥犯人説に異論を唱える人がいたのですね。それで話がややこしくなってしまいました。たとえば、1羽のサギがそれほど大量のオタマジャクシを食べられるはずがないと言う人たち。

いしかわ動物園(能美市)
「100匹以上を一斉に同じ場所に落とすとは考えられない」(朝日新聞 2009年6月18日

名古屋市野鳥観察館
「100匹は量が多い。そんなに一度に飲み込めるだろうか」(中日新聞 2009年6月18日

日本野鳥の会県支部丹南ブロック
「オタマジャクシを30匹も吐き出すというのでは数が多すぎる」(毎日新聞 2009年6月19日

もちろん、この方々の疑念は的を射たものではありません。アオサギの咽にかかればオタマジャクシ100匹ぐらいは朝飯前です。ただ、これらのコメントは記事を読む人の判断にそれほど大きな影響を与えたとは思えません。私が今回の件を迷宮入りさせた張本人だと思うコメントは次のふたつです。

ひとつめは日本野鳥の会(東京)のコメント。

「オタマジャクシは鳥にとってまずい食べ物」(中日新聞 2009年6月9日

どなたが言ったのか知りませんが、これはいけませんね。他の鳥のことはいざ知らず、少なくともアオサギは普通にオタマジャクシを食べています。これについては 内部からも批判の声が上がっているようで、神奈川支部は会報「はばたき」(2009年8月号)で次のように上記コメントを非難しています(日本野鳥の会 支部ネット通信より)。

新聞紙上で野鳥の会のコメントとして「オタマは鳥にとってまずい食べ物で、栄養価も低い」とあり、これは適切なコメントでない。

もうひとつは山科鳥類研究所の平岡氏のコメントです。

「大きなサギなら100匹を捕獲することもあるだろうが食べた物は消化され、吐き出したら団子状になっているはず」(朝日新聞 2009年6月10日

これは観察が足りないと言わざるを得ないでしょう。たとえばアオサギの場合だと、親がヒナに餌を吐き戻すとき、その多くは未消化でばらばらに出てきます。たしかに消化されていることも団子状になっていることもありますが、それはひとつの状況でしかありません。

新聞の短い文面からはこれらのコメントをされた方がどのていどの確からしさを持って話されたのか判断するのは難しいですが、文面通りに受けとるとこれは甚だ無責任なコメントです。分からないなら分からないと正直に言うべきでした。

結局のところ、鳥説を否定できる要素は何も無いということです。であれば、空で鳥が吐いたと考えるのが一番無理が無いように思えるのですが…。

四兄弟のその後

この2羽の兄弟は右側が雄、左側が雌です。頭部の見かけが違うのではっきり区別できますね。
というのは真っ赤な嘘で、アオサギの場合、雌雄はそんなに簡単に区別できません。この2羽も然り。けれども、どう見ても違いがあるように見えるのは何故なのでしょう?

じつはこの兄弟、前に「四兄弟の運命」というタイトルで一度紹介したことがあります。 あの記事を載せたとき、ヒナは生後2週目でした。そして、4羽のヒナのうち1羽がとくに小さかったのです。ヒナの体のサイズは生き延びる可能性を大きく左右します。小さなヒナは餌を巡る競争において圧倒的に不利なばかりか、大きなヒナから常に痛めつけられることになるからです。

左の写真は前回の記事から2週間ばかり後の様子です。ご覧のように、大きなヒナが3羽に小さなヒナが1羽。小さなヒナは大きな兄や姉たちに射すくめられ、実際に小さいのがますます萎縮している感じです。これはあまりに大きなハンディです。この小さなヒナに巣立ちまでのサバイバルレースを他の兄弟と同じ土俵で戦えというのは無理な話。初めから勝負になりません。仮に彼らの世界に、大きな兄や姉は小さな弟や妹の面倒を見るべきだとか、兄弟は助け合うべきとかいうような価値観があれば話は違ってきますが、そんな満ち足りた世界の倫理観を彼らが持っているはずがありません。親でさえいじめられているヒナを助けようとしないのがアオサギの世界の常態。写真のような状況で小さなヒナがどのような目に会うのかは容易に想像できます。

そしてさらに1週間後のヒナが右の写真です。手前が小さかったヒナ。体格の面では他のヒナにかなり追いついてきました。しかし、虐待の跡は生々しく残っています。頭部の羽毛はことごとくむしられ、地肌が見えるほどになっています。アオサギは相手を攻撃するとき、くちばしで頭部を突くのが最も一般的です。ヒナ同士にそれほど体格差がない場合は小突く程度で大事に至りませんが、体格に圧倒的な差のあるヒナの場合には、小さなヒナが受けるダメージはそうとうなものになります。最悪の場合、文字通り血みどろになるまで相手を突き、最終的には殺してしまうこともあるようです。幸いなことに、このヒナの場合は死に至るほどの深手は負わなかったようで、ぼろぼろになりながらも、何とかここまで持ちこたえることができたようです。

そして、この状態からさらにひと月ほど経ったヒナの様子が最初にお見せした写真なのです。どちらが小さかったヒナかはもうお分かりでしょう。頭部の羽毛はまだ本来の長さではないものの、完全に復活しきれいに生え揃っています。虐待があったのは遠い昔の話となり、大きな兄弟のうち2羽はすでに巣立ってしまいました。このヒナもここまで大きくなってしまえば、よほどのことが無い限り巣立ちまで障害になるものはありません。頭部の羽毛がさらに伸び、他のヒナと外見で見分けがつかなくなる頃には、このヒナもすでに巣立っていることでしょう。長生きしてほしいものです。

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