アオサギを議論するページ

闇夜の声

昔、私がアオサギとはじめて遭遇したのは、その姿ではなく声を通してでした。森の中を歩いていると、いきなり頭上低いところをギャッという甲高い声が横切ったのです。強烈なインパクトのある声でした。もしこれが人気のない暗闇で相手の正体を知らずに聞いた声だとすれば、心中穏やかではいられなかったかもしれません。

サギの声といえば、漱石の「吾輩は猫である」にちょっと気になる一節があります。小説の場面は、例のごとく苦沙弥先生の家に浮世離れしたいつもの連中が集まってたわいもない雑談をしているところ。ここで客の一人である寒月君が、ヴァイオリンを弾ける場所を求めて、夜中、ひとりで山に登ったときの体験談を披露します。寒月君、目的の場所に辿り着き、闇と静寂の中で一枚岩の上に腰を下ろして恍惚としています。

「こういう具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然後ろの古沼の奥でギャーという声がした。…」
「いよいよ出たね」
「その声が遠く反響を起して満山の秋の梢を、野分と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った…」
(…中略…)
「それから、我に帰ってあたりを見渡すと、庚申山一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大きすぎるし、猿の声にしてはーーこの辺によもや猿はおるまい。何だろう? (…中略…)今考えてもあんな気味の悪かった事はないよ、東風君」

恐怖に怯えた寒月君は、このあと一目散に山を駆け降りることになります。もっとも、漱石はこれがサギの声だとはどこにも書いていません。もしかすると、キツネか何かのつもりだったのかもしれません。けれど、「人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大きすぎる」というのは正にサギの声の特徴です。しかも、声が聞こえたのはいかにもサギがいそうな「小沼の奥」、ここはやはりサギのほうが相応しいと思うのです。どうしてこれがサギでなければならないか、それにはもうひとつ理由があります。どうも漱石は不気味なイメージを象徴する存在としてサギをみなしていた節があるのです。

漱石の別の小説「夢十夜」にサギの出てくる場面があります。サギが登場するのは怪談調に書かれた第三夜、ここではサギがまるで闇の使いでもあるかのように描かれています。

左右は青田である。路は細い。鷺の影が時々闇に差す。
「田圃へかかったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。

漱石に限らず、日本人のサギ、とくにアオサギに対する印象はいつも多少の不気味さを伴ったものであったようです。その辺りの詳しい考察は、以前、弘前大学の佐原さんが鳥学会で発表されたことがあります。発表のごく簡単な内容がこちらのページの「3. 西欧文学と日本文学におけるアオサギイメージの異同」で紹介されています。そこに書かれている「憂鬱」「暗鬱」「幽かな」、これらのイメージをアオサギに読み取る人は今でもまだ少なくないのではないでしょうか。

現代になってアオサギとこれらのイメージの関係は多少薄れてきたかもしれません。しかし、あの声に限って言えば、今でも私たちの想像力を十分掻き立てる魔力をもち続けているように思うのです。

青鷺の 声鳴き渡る 闇夜かな (舂鋤)

そういえば、怪談の季節なのでした。暑い夜、アオサギの声で涼んでみてはいかがでしょう?


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