アオサギを議論するページ

イェイツのアオサギ

冬、雪で覆われた野外でアオサギを見かけることはほとんど無くなってしまいました。けれども、小説や詩、俳句、和歌など、文字で書かれた作品の中には季節を問わず彼らの暮らす場があります。そこに現れるアオサギはもちろん情景描写の一点景に過ぎないこともありますが、記録文学でもない限り、そこには多かれ少なかれ作者のメッセージが含まれます。アオサギの場合、このメッセージ性が他の鳥に比べとりわけ濃いように思うのです。

W. B. イェイツ(1865-1939)もアオサギをシンボリックに描いた作家の一人です。彼のことは以前このサイトでも取り上げたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません(このページの2008年12月25日の投稿)。そのとき紹介したのは「The Old Men of the Twilight(薄明の老人たち)」という短編でした。この作品に見られるモチーフは、ドルイド僧が聖パトリックの怒りを買いアオサギに姿を変えられてしまうというもの。そこで私は、そこでイェイツがアオサギに象徴させたものが何なのかを自分なりに考えてみたわけです。この作品に描かれているのは古代ケルトとキリスト教という異なる価値観をもつ世界です。であれば、そこに現れたアオサギは「両者を繋ぐ架け橋的な存在の象徴」だったのではないかと。これは後で考えればずいぶんいい加減な推論でした。投稿してほどなくおかしいことに気付き、早いうちに訂正しなければならないなと思いつつ、あっという間に2年も経ってしまいました。というわけで、今回は他の作品にもあたりながら、いま一度イェイツのアオサギ像を考え直してみたいと思います。

イェイツの作品は詩あり戯曲あり散文ありとその形態は様々ですが、そのいずれのジャンルにおいてもアオサギが登場します。おおざっぱに調べただけでも全部で10作近くはあるようです。そのうち、アオサギが重要な役割を担っているのは3つ。まず最初に発表されたのが前述の「薄明の老人たち」で、あとの2作は「The Calvary(カルバリー)」に「The Herne’s Egg(鷺の卵)」といずれも戯曲が続きます。

まずは「黄昏の老人たち」。これは前述したとおりで、聖パトリックがドルイド僧をアオサギの姿に変えるという内容です。場所はもちろんアイルランド。このモチーフはじつは古代ケルト世界に求めることができます。古代ケルトの人々は輪廻転生の考え方をもっており、さらに面白いことに、鳥は人の生まれ変わりとも考えていたようなのです。同じ鳥でもシジュウカラやハチドリといった鳥に前世の人の姿を想像するのは容易ではありませんが、サギやツルのように二本足で直立できる鳥であればまあ分からない話ではないですね。

人をアオサギに変えるというこのかなり突飛なモチーフは、じつはケルトの神話の中にほぼ同じパターンを見ることができます。アイルランドの神話ではマナナーン・マクリールという海の神がいるのですが、彼の奥さんになるイーファが、恋敵であったルクラという女性にアオサギに姿を変えられてしまうのです。イェイツが「黄昏の老人たち」を書くにあたってこの逸話を念頭に置いていたことはたぶん間違いないでしょう。このように、アイルランドのケルトの人々は古くからアオサギとの関わりを持っていたのです。

余談ですが、ドルイド僧は魔術を用いるとき、片方の手で片目を塞ぎ片足で立つ姿勢をとったそうです。これをサギのポーズと呼びます。魔術の内容についてはよく分かりませんが、彼らはこの姿勢をとることで意識を集中させパワーを集めることができたといいます。一本脚で佇み微動だにしないアオサギにドルイド僧が感じたもの、それはいま私たちが感じるものとそれほど変わらないのではないでしょうか。

脱線ついでにもうひとつ。先に書いたマナナーン・マクリールの神話でもそうですが、これらの神話に出てくるアオサギは、英語の文章ではcraneという単語で書かれる場合が多いようです。craneの日本語訳はツルです。おそらく、英語圏の人もそのまま読めばほとんどはツルと解釈するでしょう。これがそのまま和訳されて、日本でもごく当たり前にツルとなっています。けれども、ここで注意したいのは、アイルランドのケルト神話はアイルランド語で伝わったということ。アイルランド語ではその鳥をcorrと書きます。corrというのは首と脚の長い鳥のことです。このため、corrにはサギ以外にツルの意味も加わります。これがcorrをcraneと翻訳する人が多い理由なのですね。けれども、corrがサギであってツルでないことは少し注意すればすぐに分かります。たとえば右の図。これは”Celtic Symbols”(Sabine Heinz著)という本にあったケルトのデザインですが、この絵が使われているのはcraneを説明したページなのです。けれども、実際はこれがサギであることは頭の後ろに冠羽がついているのを見れば一目瞭然ですね。

もうひとつ混乱に拍車をかけているのは、アイルランドではサギとツルが言葉の上ではっきり区別されていないことです。学術的にはもちろん使い分けているのでしょうけど、一般にはサギのことをcraneと呼ぶことも多いそうなのです。なぜ明確に区別しないのかと不思議だと思いますが、これにははっきりした理由があります。そもそもアイルランドには(少なくとも現在は)ツルがいないのです。だから、サギのことをcraneと言ってもそれほど不都合がないのですね。craneはじつはサギなのです。そんなわけで、ケルト神話に現れるcorrがアオサギを指すのはまず間違いないと思います。

本題に戻りましょう。キリスト教とアイルランドの古代ケルト世界との対立、これはもっと広く言えば、キリスト教世界と非キリスト教世界との対立であるともいえます。このモチーフはイェイツの作品の中にしばしば現れます。「カルバリー」もそのひとつです。この戯曲の主役はキリスト、ラザロ、ユダの3人。そして脇役としてアオサギが非常にシンボリックに配置されています。ここでアオサギが象徴するのはキリストを裏切ったユダが属するはずの世界、それはすなわちキリストの存在とは無関係に成り立っている非キリスト教の世界です。劇中、楽師の一人がこう歌います。”God has not died for the white heron.” 神はアオサギのためには死なない、つまりアオサギは神の恩寵の及ぶ範囲外だというわけですね。これは言い換えれば、アオサギを非キリスト教世界のシンボルとみなしているということでもあります。

なお、楽師の台詞(実際は歌)に出てくるサギがwhite heron(白いアオサギ)となっていますが、この白いという語はとくに気にしなくてもいいと思います。じつは次に話題にする「鷺の卵」でも同じく白いサギが出てきます。アオサギを敢えて白くしたことについてはイェイツに何か思うところがあったのだと思いますが、話の内容からはアオサギが何色であっても物語の内容にはとくに影響しないように思います。おそらく、舞台での演出効果を考えてインパクトのある白にしたのではないでしょうか。少なくともheronと書かれている限りアオサギであることは間違いなく、シラサギ(egret)を指しているわけではありません。日本語訳された戯曲集を見ると「白鷺」となっていますが、これは明らかに誤訳で、本来は「白い青鷺」、それが無理なら少なくとも「白い鷺」とすべきです。

「カルバリー」のアオサギについては、このように非キリスト教世界を象徴するものとして捉える見方が一般的ですが、これとは反対に、キリスト、あるいはキリスト教世界に結びつけて考える人もいます。じつはこの見方は「カルバリー」が最初ではなく従来からあったものなのです。とくに中世キリスト教の世界ではサギはかなり肯定的に捉えられており、9世紀にマインツの大司教であったマウルス・ラバヌスに至っては、驚くべきことに「サギはキリストである」とまで言っています。これは詩篇第103巻17番の”Herodii domus dux est eorum”(訳:サギは彼らの家の指導者)を解釈したものだそうですが、この辺の事情は詳しく調べればまだまだ面白いことが出てきそうですね。ともかく、イェイツが「カルバリー」のアオサギにキリストを象徴させたとしても何の不思議もないわけで、もしそうであれば、アオサギはキリスト教世界と非キリスト教世界の狭間をどっちつかずのまま漂っていることになります。それはとりもなおさずイェイツの心境を反映したものでもあるのでしょう。

最後は「鷺の卵」の紹介です。この戯曲が世に出たのはイェイツが亡くなる前年(1938年)のこと。「カルバリー」から17年、「黄昏の老人たち」からは43年もの月日が経っています。「鷺の卵」はイェイツの戯曲の中ではもっとも論争の多いものだそうですが、サギの象徴性ということで見れば、今回の3作品の中ではもっとも分かりやすい内容だと思います。「鷺の卵」のアオサギは王であり神として登場します。神といってももちろんキリスト教の神ではありません。ここでのサギはもはや「カルバリー」のアオサギのような二面性をもつどっちつかずの存在ではなく、明らかに非キリスト教世界、古代ケルト世界を象徴するものとして描かれているのです。

物語では、このサギの卵が別の王によって盗み出され、そのうえ、サギの妃となるはずの女司祭がこの王たちによって陵辱されます。サギの王の世界を古代ケルト世界とみなすなら、卵を盗んだ王が代表しているものはキリスト教の世界に他なりません。つまり、アイルランドにもとからあったケルト社会を、あとから来たキリスト教が蹂躙した、そのシンプルな歴史表現と捉えることができるのです。ここに来てイェイツは、キリスト教世界よりも古代ケルト世界のほうが良いものだという思いを確信に変えたとも考えられます。

アオサギの毅然とした立ち姿を思うにつけ、キリスト教の本質というものが、虚構をいかに実存に耐えさせるかという壮大な実験に過ぎないように思えてなりません。アオサギはニーチェ的な意味合いで見れば徹頭徹尾、実存そのものです。そのサギの前ではキリスト教の神は「アオサギのためには死ねない」などと意味のない御託を並べる前に、自ら雲散霧消するほかないでしょう。

ユダであれ誰であれ、人間である以上、そこに完璧な実存を求めるのには無理があります。イェイツの手法的な秀逸さは、人間でなくアオサギをもって完全な実存を見通し得たことだと思うのです。もしイェイツが、その生涯をアオサギに関心を持つことなく過ごしたなら、キリスト教の世界観から果たしてうまく脱することができたかどうか。そう考えると、イェイツのアオサギは彼の文学になくてはならない存在であり、ひいてはイェイツが旗手として率いたアイルランドの文芸復興運動の陰の功労者といえるかもしれないと思うのです。

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