アオサギを議論するページ

あまりに杜撰な鳥獣管理

先日、北海道アオサギ研究会のほうで鳥獣管理行政についての報告書をまとめました。報告書は「アオサギの有害駆除に係る問題点に関する報告」というもので、行政に対する批判を書き連ねた内容になっています。読んでいただけば、行政のあまりのひどさにびっくりされることと思います。ただ、こんな風に紹介したところで、この手の報告書はまず読まれないのですね。よほどの関心がない限り。そこで今回は報告書を読まなくても問題の概要が分かってもらえるように、ここで内容をかいつまんで紹介したいと思います。これを機に鳥獣管理行政の実態に少しでも問題意識をもっていただければ幸いです。

figそもそもなぜこんな調査をはじめたかというと、アオサギの駆除数の異常な激増ぶりを知ったことが発端でした。右の図はここでも度々ご紹介してきたのでご記憶の方もいらっしゃるかと思います。全国の駆除数の経年変化を示したもので、平成8年に8羽だった駆除数が平成22年には3,412羽にまで増加しています。近年になってアオサギが増えたことはほぼ間違いありませんが、それだけでここまで極端な事象は説明できません。そこで、その原因を鳥獣管理行政に求めたのが今回の報告書というわけです。調べてみると、案の定とんでもない状況が明らかになりました。以下にその一端をご紹介したいと思います。

ともかく駆除が安易に許可されすぎているのです。本来、駆除とはどうしようもない場合の最終手段であって、徹底的に防除を行ってもまるで被害が収まらず、人的、経済的被害が甚大で、とても許容できるレベルでないとなった場合に止むを得ず鳥獣を犠牲にするものです。このことは鳥獣保護法にもはっきり書かれています。それが、防除すら行わずにいきなり駆除申請し、しかもそれが難なく許可されるケースがあまりに多いのです。一応、防除を行っている場合でも、被害額が示されていなかったり、被害額が示されている場合でも根拠が出鱈目だったり、この辺のいい加減さは数え上げれば切りがありません。ひどい場合には、何の被害なのかも知らずに駆除が許可されているのです。単に「有害だから」というのが理由として認められ、それだけで駆除が許可されるわけです。法の規定もへったくれもありません。もちろんこれは極端な例ですが、鳥獣管理行政では全国的にこのようないい加減さが蔓延しています。これを大袈裟と思われる方はぜひ報告書のほうに目を通してみてください。

それにしても、なぜこのようなことが放置されているのでしょうか。端的に言えば、行政が鳥獣管理をまともに実施していくだけの人的リソースや予算をもっていないことが原因です。限られたリソースの中で鳥獣管理を行おうとすれば、どうしても希少鳥獣の保護や被害の大きい特定鳥獣などへの対応が優先され、アオサギなどのいわゆる一般鳥獣への対応は後回し、というか、ほぼ無視されることになります。たとえばこれが人の生活に関わってくる問題であれば、不満をもつ人たちがそのうち声を上げることになるのでしょう。しかし、そこはもの言わぬアオサギのこと、行政に彼らの苦情が届くはずもなく、問題が表面化することのないまま駆除数だけが毎年異常なペースで増え続けているのです。

人がいない予算が無いというのはたしかに深刻な問題です。実際、市町村では、鳥獣管理の担当者がいても課として独立した部署があるわけではなく、産業振興課とか農林土木課といったところで細々と仕事をしている場合が大半です。それでもその担当者が鳥獣管理についてのきちんとした見識をもっていれば問題はありません。しかし、人材が豊富な大都市ならともかく、限られた数の職員しかいない小さな町や村にそれを期待するのはかなり難しいと思います。許認可業務の手順をこなすことはできても、駆除を行うべきか否かといったことについては、鳥獣の生態についての十分な知識と、さらに言えば動物に対する適切な倫理観がなければ正しい判断は下せないからです。もっとも、担当者ひとりの判断で事が動いているわけではないと思います。鳥獣保護員や地域の識者に意見を求めるなどできることはやっているはずです。しかし、それで上手くいっていないことは今回の調査結果であまりにも明らかです。

ところで、このように書くと、ここで問題視しているのが市町村だけのように思われるかもしれませんが、問題なのは都道府県も同じです。というのは、駆除の許認可業務は都道府県主体で行っている場合もあるからです。そもそもアオサギ駆除の許認可業務はもともとは国の仕事でした。それが小泉政権のときに何でもかんでも地方分権推進ということで、駆除の許認可業務が都道府県に移され、それだけでなく、都道府県が市町村へ同権限の委譲を行うことも可能になったのです。なので、現在の駆除業務は都道府県自ら行っている場合もあれば市町村が行っている場合もあります。そして、どちらがやったところでそのいい加減さにたいした違いはありません。実際、都道府県の鳥獣管理行政も市町村のそれに勝るとも劣らないほど問題が多いのです。なにしろ鳥獣保護法の規定すらろくに理解していない人もいるくらいですから。逆に、市町村のほうでは都道府県の担当者などより鳥獣管理についてはるかに深い見識をもつ担当者もいますし、地域密着の視点をもてるという市町村ならではの利点を活かし理想的な鳥獣管理ができている場合もあります。結局のところ、都道府県も市町村も担当者次第なのですね。ただそうは言っても、平均的な話としては、都道府県と市町村では駆除への対応に差があることは認めなければならないと思います。単純な事務処理は別として、駆除を行うべきか否かといった総合的な判断が求められるところでは一定レベル以上の専門性がどうしても必要になります。そうなるとそれだけの人材がいるのかという話になりますが、市町村ではもとよりいないところのほうが多いでしょう。にもかかわらず、そういった本来であれば業務を受ける資格のない市町村が駆除を行っているのが実情なのです。たとえば、市町村の中には、対処捕獲(被害が発生してから行う駆除)や予察捕獲(年間計画に基づいた駆除)といった駆除を行う上での基本的な用語さえ知らない担当者がいたりします。こういったことはさすがに都道府県ではありません。都道府県は最低でもこのレベルは保っているだろうというのがありますが、市町村ではその底が無く、ダメなところは徹底的にダメなのです。そういうダメな市町村に鳥獣の駆除業務が任せられると、アオサギの運命はもう悲惨というほかありません。

その無茶苦茶な鳥獣管理行政の実態を具体的にご紹介しようと思って今回書きはじめたのですが、前置きだけでこんなに長くなってしまいました。年の瀬の慌ただしい折、こんなサイトで時間を潰していただける御奇特な方はあまりいらっしゃらないかと思います。ということで、つづきは年が改まったらまた少しずつ書いていきます。その時はまたお付き合いください。なお、今回の話題については異論のある方も多いと思いますし、さまざまな観点から大いに議論が必要と考えています。ご意見などありましたら掲示板もしくはtwitterのほうまでぜひお寄せください。行政関係者のご意見も大歓迎です。

では皆さん、良いお年をお迎えください。

鷺の社

今月上旬、愛媛の神社2社を訪ねてきました。もちろん、ここに書く内容ですからどちらもサギに関係した神社です。

ひとつめは今治市にある三嶋神社。この神社のことはこちらのブログで初めて知りました。何を隠そう、ここには鷺大明神が祀られているのです。神社の様子は同ブログで詳しく紹介されているので御覧になってください。田園地帯にあって、鬱蒼とした森に木漏れ日がきれいな神社でした。

三嶋神社-1この神社の祭神は大山津見命です。そもそも三嶋神社というのは名前から連想されるとおり三島水軍に縁の深い神社なのだそうです。そして、水軍の神さまというと、瀬戸内のほうでは大山祇神になるのですね。何と言っても海の神さまですから。一方、鷺大明神はというと、ひっそりした神社のさらに片隅で小さな祠に鎮座していました。「鷺大明神」の名もしっかり読み取れます。

三嶋神社-2もっとも、鷺大明神はここだけの神さまではありません。もともとは出雲のほうの神さまで、あの辺りではいくつもの神社で祀られているそうです。そこから各地に分祀されていったのでしょう。中国から四国へ渡るとき水軍が関係していたのかどうか、そうでなくても鷺の神さまですから瀬戸内の海ぐらいひとっ飛びでしょうけど。

ところで、水軍といえば、元寇で名を馳せた伊予水軍の河野道有に次のような逸話が残っています。

昔、弘安四年の蒙古襲来の時、河野道有は本社に參詣して祈願を籠め、筑前博多に向かつたのに、不思議や、神の使「白鷺」の案内があつて、遂に大捷を博したことは有名な話である。「今治郷土読本」(昭和12年刊行)

ここでは鷺大明神ではなく神の使いになっていますね。そして、注目すべきはその鷺がシラサギだということです。おそらく鷺大明神もシラサギだったのでしょう。昔は単に鷺といえばシラサギを指していましたから。

宮鷺神社ところが、神社に縁のある鷺はシラサギだけかというとそうではないのですね。それが今回訪れたもうひとつの神社です。社名を宮鷺神社といいます。こちらは八幡浜市の山間部、細いくねくね道の峠の先にありました。小さな集落の小さな鳥居をくぐり、急な石段を登っていくと、ここもまた鬱蒼とした森。樹上にはアオサギの巣が…、あるはずもなく、ただ森閑とした森の中に神社がぽつんとありました。小さいけれどこれが本殿です。どこかに鷺の名前でもないかなと探しましたが、一向にそれらしいものは見当たりませんでした。

じつは、宮鷺神社というのは明治の末に別の神社と合祀されたときに付けられた名前で、それまでは青鷺神社と呼ばれていたのです。正真正銘、アオサギです。なぜアオサギなのかと言うと、その昔、この集落で疱瘡(天然痘)に罹って死んだアオサギを祀ったからなのだそうです。昔の人々にとって、疱瘡はそのためにお宮をつくらないといけないほど恐ろしい病気だったということですね。もちろん実際にアオサギが疱瘡に罹ることはありませんが、この場合、どうしてもアオサギでなければならないのです。もっともシラサギでも構いません。けれども他の動物ではなく必ずサギでなければならないのです。なぜなら、鷺大明神こそが疱瘡神だからなのです。

出雲の国から瀬戸内を渡り、今治、八幡浜へとあてどない旅をつづけた鷺大明神。天然痘が根絶された今となっては、もはや舞い降りるべき土地すら無いのかもしれません。大任を背負い人々から絶大な信仰を集めたのも今は昔。木漏れ日の森に忘れ去られたように佇んでいた祠やお堂を思うと、やはり一抹の寂しさを覚えずにはいられません。

冬の前に

ここ札幌は周りの山も白くなり、平地でも冬がすぐそこに感じられるようになりました。この時期になると、冬ねぐらにアオサギの群れを見かけるようになります。札幌の近くでは隣の江別市にねぐらがあり、ここで毎年、10羽から20羽ほどが越冬しています。1羽いなくなれば分かるぐらいのささやかなグループですが、それでも雪深い北国では特筆すべき規模なのです。江別以北でこれほどまとまって冬を越す場所はおそらく他に無いでしょう。

そんな冬ねぐらですが、先週末にそろそろかなと思って立ち寄ってみたところ、今年もちゃんと集まっていました。今のところ8羽。色づく河畔の木々に、何をするでもなくゆったり寛ぐアオサギたち。毎年、変わらぬ光景です。

DSCN0022ところが、1羽だけ変なのがいました。この寒いのにひとり水の中に入って水浴びをしています。たしかにその日はこの時期にしては暖かだったのですが…。もっとも、彼らにとって水浴びは、暑いからではなく身体をきれいにするため。言わば風呂に入るようなものですから季節は関係ないのでしょう。

面白いのは水浴び中のアオサギの格好です。水浴び自体はカラスなど他の鳥と同じで、そう変わったものではありません。身体を水にくぐらせて、数秒、バシャバシャやるだけです。ただ、今回はその前後に写真のような格好が見られました。一枚目は御覧の通りのカモスタイル。と言ってもカモのように泳いでいるわけではなく(浮こうと思えば浮けますが)、脚は水底に付いています。この姿勢のまま首を上げてハクチョウスタイルになることもありました。

DSCN0021二枚目のほうはもっと奇抜です。下半身を水に沈めてただ立っています。ただ立っているだけですが、なんともユーモラス。まるで温泉にでも入っているかのようで、見ていると思わず頭に手ぬぐいを載せたくなりました。そういえば、サギと温泉は不思議と縁が深く、温泉の由来にサギ伝説が残っているところが多いのです。もしかしたらこの格好が温泉の連想に一役買っていたのかもしれませんね。

ところで、ネット上でアオサギの水浴びシーンを探すと、これらと同じ格好の写真がいくつも見つかります。おそらく、カモスタイルも温泉スタイルもたまたまというわけではなく、水浴びの一環としてとられた行動、というか姿勢で、バシャバシャやるのと同じく意味のあるものなのでしょう。なお、2枚目の写真は背中側の水面に白いものが漂っていますが、これはアオサギの粉綿羽がパウダー状になったものだと思います。パウダーは水を弾いたり他にもいろいろ無くてはならないものですが、ありすぎるのもそれはそれでまた困るのかもしれません。ほどほどに流してというところでしょうか。

そんな感じで、水浴びすること4、5分。余分なパウダーや身体につく虫、ホコリなどをきれいに洗い流し、アオサギはおもむろに湯から上がっていきました。彼らはそれほど頻繁に水浴びする鳥ではないと思います。私は夏に何度か見たことがあるぐらいで。なので、こんな時期に見かけたのは少々意外でした。10月下旬の北海道。傍から見るといかにも寒そうですが、そこはアオサギらしく平然としたもの。彼らにとってはこれもひとつの冬支度なのかもしれません。

鳥獣保護法の指針のパブコメ受付中

明日ははや10月なんですね。どうりでアオサギが渡るはずです。ネットを見ていると渡りの観察報告をしばしば目にするようになりました。おそらく今この瞬間にも国内のあちこちで南への移動が続いているのでしょう。8月半ばに繁殖シーズンを終えたばかりなのに、もう去らなければならないとはなんとも慌ただしいですね。

さて、このところ鳥獣管理行政のことを何度か書いてきましたが、今回もまた同じような話題になります。今回取り上げるのは改正された鳥獣保護法。これがまた激しく引っかかる部分があるのです。鳥獣保護法の改正については昨年の暮れにここでもあれこれ書いたことがあります。当時はまだ改正案がつくられる前の段階で、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化につき講ずべき措置について(答申素案)」についてのパブリックコメントが行われている最中でした。その後、同案について中央環境審議会自然環境部会というところで3回ほど審議が行われ、さらに国会での審議を経て5月21日に改正法が成立(5月30日公布)しています。これは来年の5月に施行されます。

ところで、ここで不思議なのは、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化につき講ずべき措置について(答申素案)」は「鳥獣の保護及び管理のあり方検討小委員会」とその後の自然環境部会で繰り返し審議されているのですが、改正案そのものについては何の審議もなされていないことです。改正案は自然環境部会の2回目と3回目の間につくられています。ただ、3回目の部会というのは、事務局からのこんな案になりましたという報告のみで実際の審議はありません。結局、改正案は国会での審議だけということになるわけです。もちろんパブリックコメントもありません。行政のことは何も分からないのでそれが普通だと言われればそれまでですが、どうも納得できませんね。

昨年暮れのパブコメは改正内容についての基本的な考え方が示されていただけで、法そのものを示したものではありませんでした。もちろんパブコメの意見やその後に審議された内容が忠実に改正案に反映されているのならそれで構いません。ところが実際は、最後に事務局が独自に改正案をまとめ、それまでの審議で十分に合意されていない内容が突然ぽーんと出てくるのです。なんだか狐につままれたような感じです。

ともかく、気になる方は改正された鳥獣保護法(変更箇所のみ)を一度御覧ください。いろいろおかしいところが見つかるかと思います。私がとくに問題だと思うのは以下の部分です。

第2条の3 この法律において鳥獣について「管理」とは、生物の多様性の確保、生活環境の保全又は農林水産業の健全な発展を図る観点から、その生息数を適正な水準に減少させ、又はその生息地を適正な範囲に縮小させることをいう。

これは鳥獣保護法の中での言葉の定義を述べたものです。「管理」という語がこのように勝手に定義されています。「管理」という言葉については、自然環境部会だけでなく、部会の下にある小委員会やパブコメでも何かと問題になっていましたが、議事録を見ても誰もこんなふうに定義しろとは言っていません。こんな内容が専門家の審議やパブコメを通さずに事務局の一存で法として成立してしまうとはどういうことなのでしょう? たしかに言葉の定義は必要ですが、「管理」という語はこの法律の核心となる語であり、とりあえずこんなふうに定義してみましたで済むようなものではありません。しかも、定義の内容がおかしい。この「管理」が言わんとしているのは、つまるところ駆除そのものです。駆除でない部分も若干想定できるから敢えて捕獲や駆除などの表現を避けたのかもしれませんが、本来の管理という語と違う用い方をしているために混乱を招くもとになっています。ちなみに、この定義の直前には「保護」の語が定義されています。その定義は「管理」のちょうど逆で、「生息数を適正な水準に増加させ、若しくはその生息地を適正な範囲に拡大させ」るというものです。本来、駆除にしろ保護にしろ、鳥獣を管理するためのアプローチのはず。どちらも管理なのです。ところが、駆除の代わりに管理という語を使い、保護は管理ではないという、もう何が何だか訳の分からないことになっています。よほど駆除という言葉を用いるのが嫌なのでしょうね。

ところで、ここに書かれた「適正な水準」や「適正な範囲」の「適正」というのは何なのでしょう? 何を基準に適正と言っているかがまず分かりません。今回の法改正は、じつはシカとイノシシの個体数を減らすことがメイン、というか、ほぼそれだけのための法改正です。なので、この「適正な水準」も、シカやイノシシの個体数がまず想定されているのは間違いありません。しかし、それならそのことがはっきり分かるような書き方をすべきで、その考え方を他の鳥獣に対しても同じように適用させようとするのはあまりに乱暴です。たとえばシカが増えたのは、もとをただせばオオカミなどの捕食者がいなくなったからです。その場合は、捕食者がいる状況での個体数を基準にして「適正な水準」を考えることもできるかもしれません。けれども、アオサギなどの場合は、もともと捕食者がいないため、生態系が許容する範囲を超えて個体数が増えるということは今も昔も原理的にあり得ません。生態学的に見れば、彼らの個体数に適正な水準という概念は成り立たないのです。

適正とか適切などという言葉はお役所言葉の最たるもので何の意味もありません。何かまっとうなことを書いているようでいて、その実、何も書いていないのと同じです。少なくとも科学的な書き方が必要な文に使う単語ではありません。「適正な水準」の話ではありませんが、今回の答申案については審議会の委員からも科学的でないと散々文句を言われていました。実際、そのとおりなのです。審議内容については、部会の第20回から第22回と小委員会の第1回から第8回の議事録にすべて載っていますので、興味のある方はぜひご確認ください。

これらの議事録を見てみると、スケジュールが立て込んでいるとはいえ、さまざまな課題が次の宿題ということで先送りされ、生煮えのまま法律ができあがっていく様子がよく分かります。先に書いたとおり、今回の法改正はシカやイノシシへの対処に焦点を絞ったものです。しかし、法そのものが改正される以上、影響を受けるのはシカやイノシシだけとは限りません。よほど考え抜かれたものでないと、それ以外の鳥獣に想定外の負担(たとえば過剰な捕獲圧など)がかかってきます。「適正な水準」の問題はそのひとつに過ぎません。ともかく、いろいろと不完全、あっちもこっちも不備だらけの法律なのです。以下の引用は自然環境部会の議事録にあった事務局の答弁ですが、これだけ見ても今回の法改正がいかに不完全なものかが分かるかと思います。

(シカやイノシシの駆除の)仕組みはできるとしても、その先に何を目標に鳥獣管理をしていくかというのは、まだまだこれから議論が必要だと考えています。

まるで逆ですね。ふつうは目標を立てて、それに合わせて仕組みをつくっていくものです。目標のない鳥獣管理とはいったい何なのでしょう? 恐ろしいことです。

じつは、今回の鳥獣保護法の改正にともない、同法の指針も変更されることになり、その変更内容について、現在、以下のように意見の募集が行われています。

「鳥獣の保護及び管理を図るための事業を実施するための基本的な指針(変更案)」について、広く国民の皆様から御意見をお聞きするため、平成26年9月16日(火)から10月16日(木)までの間、意見の募集(パブリックコメント)を行います。

鳥獣保護法の指針ということで、ここにも「管理」や「適正な水準」など、今回取り上げたのと同じ問題が山積しています。改正法のほうはすでに成立してしまいましたが、こちらはまだ間に合います。関心のある方はぜひ御一考を。

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