アオサギを議論するページ

オオアオサギのライブ中継

今年もまたアオサギの子育てシーズンですね。ここ札幌近辺のコロニーではつい先日巣作りがはじまったばかりですが、お住まいの地域によってはヒナがもう生まれているのではないでしょうか。シーズンになると私も近くのコロニーによく観察に行きます。けれどもよほど条件の良いコロニーでも100mも離れたところから双眼鏡やスコープで観察するのが関の山ですし、街中のコロニーは近寄れはするものの樹上を仰ぎ見るようなことになってしまい巣の中の状況はかえって分かりません。そんなわけで、子育ての様子やヒナの状況を細かいところまで観察しようとすると従来の方法ではどうしても限界を感じざるを得ません。それなら巣の近くにビデオを取り付けようというのが今回ご紹介するウェブカメラです。

これは今更紹介するほどでもないのですが、日本では営巣の様子を撮影するのを問題視する風潮があるせいか、いまいち馴染みが薄いように思います。ということで今回敢えて取り上げてみました。別に特段のことはなく、子育ての映像をネット上でライブ中継するというものです。海外のサギ類では少なくとも7、8年前にはすでに試みられていたように思います。当時からいろいろな団体、組織が各地で独自にライブ中継していました。そんな中、もっとも人気のあったのはニューヨークのコーネル大学が企画したものでしょう。これはオオアオサギを対象としたライブストリーミングで、2012年から2年つづけてシーズンを通してほぼ途切れることなく四六時中ライブ中継されていました。何が素晴らしいといって、子育ての様子がパソコンのディスプレイ上で間近にしかもリアルタイムに見られるのです。間近で観察して初めて分かることは多いですし、誰も見ていなくても連続して映像が記録されていることの科学的価値は計り知れません。ともかく、あの企画はオオアオサギへの理解を深めることに格段の貢献をしたと思います。当時のカメラ設置の様子などはこちらに記録されています。当時の映像は「great blue heron cam」などで検索すればいくらでも出てきますので、ご覧になったことがない方はぜひ見てみてください。

残念ながらコーネル大学のウェブカムは3年目にオオアオサギが巣に戻ってこなくなったため打ち切りになりましたが、オオアオサギについては現在稼働中のウェブカムは他にもいくつかあります。たとえばバンクーバーのスタンリーパーク。ウェブカムの映像はこのページで見られます。こちらはコーネル大学に比べるとかなり引いた映像となっています。というのも、コーネル大学ではカメラが巣の真横に付けられていたのに対して、スタンリーパークのほうはコロニーに隣接するビルの屋上に設置されたものだからです。写真のビルの屋上中央に白く小さく見えているのがカメラです。ここは子育ての様子を詳細に観察するというよりは、オオアオサギのことを少しでも多くの人たちに知ってもらい親しみをもってもらおうというのが目的のようです。なので、カメラは映像を見ている人が自由に動かせる仕様になっており、上記リンクページの映像画面から誰でも操作できます。

もっとも、見ていて興味がより持続するのはやはり間近に設置されているカメラだと思います。ただ、その場合はカメラを向けている巣にサギが来なかったらそのシーズンは棒に振ります。たとえば、東海岸のチェサピーク湾に設置されているウェブカムは現在このような映像で、説明がなければ何を撮ろうとしているのか分かりません。まだ時期が早いのでこれからここに巣をつくりはじめるかもしれませんが、このまま誰も来ない可能性も十分あります。賭けのようなものです。その点、スタンリーパークで設置しているカメラの映像は当たり外れがありません。コロニーが放棄されない限り、どっかこっかの巣は必ず見えますから。なお、スタンリーパークの映像は夜になると画面が真っ暗になりますので注意してください。今の時期ならこちらの夜11時頃にようやく明るくなって映りはじめます。


墓石はアオサギの頭になり得るか?

ボブ・ディラン、結局、ノーベル賞はもらうみたいですね。ところで、ディランという名がウェールズの詩人ディラン・トマスに由来することはよく知られたところです。そのトマスはつい先日の10月27日が誕生日で、生きていれば102歳のはず。しかし、若くしてというか30代で亡くなっています。ボブ・ディランが12歳のときです。

ということで、今回はそのトマスの詩について、ちょっと気になったことを書いてみます。もちろんアオサギのことです。トマスの詩にはアオサギがよく出てきます。しかも、点景として描写されるのではなく、詩の中でアオサギはいつも重要な要素になっているのです。あちらはなぜかアオサギが大人気のお国柄ですが、トマスのアオサギへの思いは特別なものがあったようです。

そんな彼の詩に「Over Sir John’s Hill(サー・ジョンの丘の上で)」という一編があります。描かれているのは丘の上で小鳥がタカに襲われて…といった分かりやすい光景ですが、そこに横溢するイマジネーションには圧倒されます。英文の原詩はネット上にいくらでもあるのでぜひ探してみてください。

さて、気になったというのはこの詩の和訳です。原文は英語ネイティブの人たちでもストレートには理解できないのではないかと思いますが、これを日本語に訳すといっそう判りにくくなります。詩を他の言語に訳すのが難しいのは分かります。とくにトマスの詩はひとつの単語に複数の意味を持たせることも多いですから正確な訳などまず不可能でしょう。ただ、今回ご紹介するのは明らかにおかしい、決定的な誤訳と思われるものです。いま手元に40年以上前に和訳された詩集と比較的最近の文献があり、どちらも同じように訳しています。もしかしたら、別の訳もあるのかもしれませんが、とりあえず以下は古い詩集からの引用です。英語の原詩と見比べてみてください。

and slowly the fishing holy stalking heron
In the river Towy below bows his tilted headstone
そして下手のタウィ川で魚を漁って忍び寄る聖なる青鷺は
その傾いだ墓石の頭をゆっくりと下げる

まあ詩ですから独特の表現や意表を突く言葉が選ばれるのは珍しいことではありませんし、この一節も詩全体の中に置かれている分にはととくに違和感はありません。しかし、情景を思い浮かべながら読むとやっぱり変です。頭が墓石とは一体どういうことでしょうか? あんな重いものがアオサギの細い首に載っていて、それで何をイメージせよというのでしょう? ウェールズの墓石は特別ということもなさそうですし。headstoneで辞書を引くと、たしかに墓石と載っています。詩の中で小鳥たちが死ぬことを思えば、墓石のイメージを想起させるためにこの単語を用いたのはおそらく間違いないでしょう。けれども、それはあくまで言葉に隠されたイメージで、トマスがこの言葉によってビジュアルに提示しようとしたイメージとは違うと思うのです。墓石の頭はどうしたって不可能です。

img_5906それでは、トマスはheadstoneに何をイメージしていたのでしょうか? じつはこの単語にはもうひとつの意味があるのです。写真は北大の第二農場にある製乳所を撮ったものですが、窓の上部にアーチ状にレンガが意匠されています。この頂点に嵌め込まれているレンガをとくに要石(かなめいし)と呼びます。そうです。これがheadstoneのもうひとつの意味なのです。要石を支えるアーチ状の意匠からはアオサギの首が容易に連想されます。それに、同じ石とはいえ、これなら墓石とくらべてずっと軽やかではないでしょうか。

素晴らしいことに、この詩はYouTube上でディラン・トマス本人の声で朗読が聞けます(こちら)。詩中、問題の箇所を筆頭にHeron(アオサギ)が6回出てきます。動画の下に詩の全文が載っていますので、確認しながらぜひ聴いてみてください。日本語でヘロンと聴くとなんだか頼りなく響きますが、トマスの声で聴くと、トマスのアオサギへの思いもあってかとても力強く聞こえます。アオサギが想像以上に堂々とした鳥に思えてきますよ。ヘロン、いい響きです。


バンクーバーの海岸にて

先日、アメリカに行ったついでにバンクーバーに寄ってきました。もちろんオオアオサギに会うのが目的です。この地域は太平洋に面していますが、入り江が深くまで入っているためサギたちの餌場には事欠かないようで、さらに、北海道より北に位置しているのに冬も温暖で雪もほとんど降りません。このためオオアオサギは冬も南へ渡ることなく年中ここで過ごしているとのことです。

そのように素晴らしい環境ということもあって、この地域は昔からオオアオサギの研究が盛んです。とくにバンクーバーのブリティッシュコロンビア大学ではこれまでいくつもの優れた研究がなされてきました。たとえば1974年にはJ.R.Krebsがコロニーに出入りするオオアオサギの飛翔方向を観察して有名な情報センター仮説の検証を試みています。そのとき観察したコロニーというのがじつは同大学のすぐ脇の森にあるんですね。Googleの地図で調べたところ現在はもう無くなっているようですが、当時の雰囲気だけでも感じられたらと思い、コロニーのあった辺りを訪ねてきました。

dscn0110写真がその森です。あとで当時の論文を見直すと、当時のコロニーは写っている場所の尾根を超えた向こう辺りになるようですが、まあいずれにしても雰囲気自体は同じようなものだと思います。針葉樹の優先する森で、その目前にはいかにもサギが餌場として好みそうな浅瀬が広がっています。これはサギがいるはずだと思っていたら、案の定、遠くに佇むオオアオサギの姿を確認。それがオオアオサギとの初めての出会いでした。

森のほうからはワタリガラスのどこか神々しい声。先の情報センター仮説については私も別角度から調べたことがあるだけに、当時、J.R.Krebsはこんな雰囲気の中で観察していたのだろうなと思うと感慨深いものがありました。

ただ、現実はいつもそんな独りよがりを許さないもの。観察している間、私の背後でパンツをはいていないおじさんがうろうろしているんですね。見間違いかと思いつつ、なんだか居心地の悪いものを感じていたのですが、観察を終えてあらためてビーチを見るとあっちにもこっちにも裸ん坊の人たちが…(ただしお腹の出た中高年のおじさん限定)。帰りに気付いた看板にはClothing Optional Beach(服は着るも脱ぐもご自由に)と書かれていました。

サギたちの見る景色も時代とともに変わっていくんですね。


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