アオサギを議論するページ

アオサギの駆除に対する国の姿勢

今回は少し堅苦しい話になります。内容はタイトルに示したとおりでアオサギの駆除に関してのものです。あまり世間で話題になる話ではありませんが、アオサギは有害鳥獣とみなされる場合があり、全国各地で何千羽ものアオサギが毎年駆除されています。そして、この駆除件数はここ十数年のうちに激増しています。問題はその駆除が不当な理由で行われることが多々あることです。このことについては私も関わっている北海道アオサギ研究会が「アオサギの有害駆除に係る問題点に関する報告」として詳しくまとめていますので興味のある方はぜひご覧下さい。

今回は、この問題多き有害駆除に対し国がどのような考え方をもっているのかを話題にしてみたいと思います。北海道アオサギ研究会では上記報告書にもとづき、一年以上前に国に対して3つことを要望しました。その後、長い間、何の返事もなかったのですが、再度、回答するよう催促してみたところ、先月中旬になってようやく簡単な回答が届きました。以下、それぞれの要望と回答を見ていきたいと思います。なお、3つの要望のうち捕獲実績を管理するシステムの整備については、国も問題改善の意思をもっているようなのでここでは割愛します。

まず、それ以外のひとつ目の要望、アオサギを「特に慎重に取り扱う」べき種へ変更すべきとの要望です。「特に慎重に取り扱う」べき種というのは、国の定めた「鳥獣の保護を図るための事業を実施するための基本的な指針」で以下のように規定されています。

狩猟鳥獣、ダイサギ、コサギ、アオサギ、トビ、ウソ、オナガ、ニホンザル、特定外来生物である外来鳥獣、その他の外来鳥獣等(タイワンシロガシラ、カワラバト(ドバト)、ノヤギ等)以外の鳥獣については、被害等が生じることはまれであり、従来の許可実績もごく僅少であることにかんがみ、これらの鳥獣についての有害鳥獣捕獲を目的とした捕獲許可に当たっては、被害の実態を十分に調査するとともに、捕獲以外の方法による被害防止方法を検討した上で許可する等、特に慎重に取り扱うものとする。

つまり、現状ではアオサギは「特に慎重に取り扱う」べき種から外されているわけです。以下、研究会からの要望と国の回答です。

要望 平成19年1月に告示された鳥獣保護法の指針以降、駆除を目的とした捕獲を許可する際の「特に慎重に取り扱う」べき対象種からアオサギが除外されている。この措置は計画性のない安易な駆除を助長し、結果としてアオサギの被害を拡大している可能性がある。アオサギは明確な個体群構造を示す種であることから、駆除による影響が個体群レベルで顕在化しやすく、個体群構造の不安定化がさらなる被害をもたらす場合が多い。このため、アオサギの鳥獣管理は個体群構造を理解した上で周到な計画に基づいて行うことが不可欠である(詳細は報告書5.参照)。以上の理由により、アオサギを「特に慎重に取り扱う」べき種へ変更することを求める。
回答 鳥獣の保護・管理においては、地域の実情や種の特性などに応じて、被害の防除・個体数の管理・生息環境の整備を行う必要があります。このことを踏まえ、本基本指針においては、有害鳥獣捕獲のための捕獲許可は原則として防除対策をしても被害等が防止できないと認められるときに行うこととしています。ご指摘の「特に慎重に取り扱う」としている種は、被害等が生じることがまれである、ないしは、従来の許可実績がごく僅少である種を指しているに過ぎず、それ以外の種を無秩序に駆除することを容認する趣旨ではありません。

正直なところ、国からのまともな回答など端から期待してないのですが、案の定、今回の件についても期待に違わず見事に的外れな回答でした。無秩序な駆除が容認される種があるなどといったい誰が考えるのでしょうか? こういう答え方をされると、質問をわざとはぐらかそうとしているのか、それともまともに答える能力が無いのか、どちらなのか理解に苦しみます。

話を戻しますが、そもそもこの分類には、被害の生じる頻度と従来の許可実績数というたった2つの基準しかなく、そのことがさまざまな問題を生む原因となっています。駆除によってその種にどのような保全上の悪影響が想定されるかといったことはまるで考慮されていません。アオサギなど集団繁殖を行う種は、その特殊な個体群構造を考慮した上で独自の管理計画をつくるべきですが、当然、そういったこともことごとく無視されています。何が悪いと言って、こうした安易な二分法そのものが問題なのです。アオサギを「特に慎重に取り扱う」べき種に入れるか外すかといったことはむしろ二次的な問題でしかありません。本来であれば、分類法を再検討するか分類の必要性そのものを問い直すべきなのです。

続いて、もうひとつの要望。こちらは繁殖期間中の駆除を禁止せよというものです。

要望 アオサギの繁殖期間中の駆除(コロニーでの駆除を含む)は、法律、倫理の面で問題であるばかりでなく、科学的な鳥獣管理を事実上不可能にするものである(詳細は報告書4.(9)および(10)参照)。このため、同期間中に生じる被害については、危急に対応が必要な甚大な人的被害がある場合を除き、防除、追い払い等、捕殺以外の方法で対処し、殺傷を伴う行為は全面的に禁止すべきである。このことを法ないし指針に明示することを求める。
回答 アオサギの繁殖期間中の捕獲を含め、個別の種への対応については、種の特性、生息状況、被害状況及び地域の実情等に応じて、適切に実施されるべきものと考えます。

これまた期待どおりに愚にもつかない回答が送られてきました。適切に実施されていないから要望しているのに、適切に実施されるべきものと考えますなどと、どうしてこんな人ごとのようなことが言えるのでしょう? もっとも、アオサギの駆除は都道府県や市町村がその許認可業務を行っており、国が直接関与しているわけではありません。しかし、ここでの要望は、繁殖期の駆除の禁止を法や指針に盛り込めというもので、これは国が動かなければどうにもならない話なのです。

繁殖期の駆除禁止については、この問題に関心がある人でも、現実的ではないと考える人は少なくないと思います。しかし、都道府県レベルでは、同期間中の駆除禁止を「鳥獣保護事業計画」に明記しているところがいくつもあります。やればできるのです。国もはっきりダメと言えば良いところを、どっちつかずで放置しているために、問題のある駆除が各地で横行するのを許しています。その点、国は責任を免れません。

繁殖期の駆除については、既存の法律に抵触することや科学的な鳥獣管理の妨げになるといった実際的な問題はもちろんですが、それ以外に動物倫理という非常にデリケートな問題が含まれています。具体的には、たとえば子育ての期間中に親鳥を駆除すると、そのヒナも死んでしまうといった例が挙げられます。仮に百歩譲って親鳥の駆除が正当化できるとしても、ヒナには何の罪もありません。にもかかわらず、ヒナは保護者のいなくなった巣で、餓えるか捕食者に食べられるか、いずれにしても避けられない死をただ待つしかないのです。これは特殊な例ではありません。繁殖期に駆除を行えば、ヒナのいる巣では必ず同様のことが起こります。

こんなことはほんの少し考えれば誰でも分かることです。しかし、こうした事例については嫌悪感がもたれることはあっても、絶対的な善悪の判断基準を示すのが難しいため、ではどうすれば良いのかという話になるとうやむやにされがちです。国もそんなわけの分からないことに率先して関わりたくないのだと思います。となれば、動かしていくのは結局、世論ということになります。自らの心情に照らして、これは受け入れられない、とんでもないことだと、考え、声に出す人が多くなれば、やがてそれが民意になります。だからこそ私もここであれこれ書いているわけです。

国の回答についてはここに書いたとおりまったく納得できるものではありませんが、アオサギのような普通種を対象とした鳥獣管理について国がどのていどの意識をもっているか、あるいはもっていないかを少しでも分かっていただけたら幸いです。環境省はお金の無い小さな組織で、シカなど大きな被害を出す鳥獣や稀少鳥獣への対応で精一杯なのは分かります。アオサギの問題など関わっている暇はないというのはおそらく事実でしょう。しかし、やるべきことができていないのもまた厳然たる事実なのです。そのために不当に理不尽に多くのアオサギが殺されています。環境省の苦しい事情を汲み取ってなどと悠長なことはとても言ってられません。ということで、研究会のほうでも補足意見を環境省宛にすでに送付したところです。その内容についてはこちらに全文を載せていますので、ここに書いたことの繰り返しになりますが、興味のある方はぜひご覧下さい。


アオサギと共生するために

去年の暮れ、アオサギの鳥獣管理行政の実態をまとめた報告書を公開しました。報告書の内容については以前ここで簡単に紹介したとおりです。ともかく、アオサギの不要な駆除が全国で横行していること、それが杜撰な行政によって助長されていることを少しでも多くの人に知ってもらいたかったのです。あれからほぼ一年、この件については想像以上に何の手応えもありませんでした。

もちろん、国や都道府県、一部の市町村には改善策を添えて要望書は出しています。ただ、私としては行政には端から何の期待もしていません。彼らと直に話してみて、理念やビジョンのある鳥獣管理を行っている人はほんの一握りしかいないことが痛いほど分かったからです。どの担当者も個人として一生懸命働いていることは疑いません。しかし、鳥獣管理を行う上で重要なこと、たとえば野生動物と人との関係性の認識や、生命に対する哲学的、倫理学的な考察、共生のための保全生物学的なアプローチといったことに彼らが関心をもっているとはどうしても思えないのです。それどころか最低限の科学的方法論さえとられてなかったり、果ては鳥獣保護法さえ碌に理解されていなかったりというのが実情でした。

それでも業務自体は支障なく動いていくわけです。もちろんそれで良いというわけではなく、そのつけは今のところ全部アオサギが払っています。アオサギだけに特別なことが起こっているわけではありあません。他の野生動物も多かれ少なかれ似たような状況に置かれているはずです。こんな理不尽なことが問題視されず放置されてよいはずがありません。

とはいえ、行政への働きかけには自ずと限界があります。とくに事務的な問題でなく、上述したような意識の欠如が問題である場合、彼らにあれこれ言ったところで暖簾に腕押しでしょう。結局、彼らの意識は我々の意識の反映でもあるわけですから、世間の意識が変わらないことには彼らの意識は変えられないということだと思います。

ところが、我々の意識はどうかというと、こちらも問題で、ほとんどの人はアオサギに駆除の問題があることすら気にかけていません。そればかりか、アオサギという名すら知らずに生涯を送る人も多いことでしょう。これはアオサギとのトラブルが極めて局所的な問題であることに原因があります。被害を被るのは限られた地域のわずかな人たちです。たとえば、田んぼの所有者であったり、川にアユを放流している漁協であったり、釣り堀や養魚をしている人たちであったり、それにコロニーのすぐ傍に住んでいる人たちもそうですね。アオサギは全国各地にいますが、それでもこのようなトラブルは全体から見ると局所的な特殊事例に過ぎません。トラブルに直接関わりのある人もごくわずか。他の大多数の人たちは、普段アオサギとは何の関わりもなく、何が行われているかを気にかけることもなく暮らしているということです。

しかし、本当に我々はアオサギとそこで行われている駆除に関わりはないのでしょうか? 田んぼに入るアオサギが駆除されるのは、彼らが稲の苗を踏みつけるからで、米を食べる私たちがいなければアオサギが殺されることもありません。養魚場で殺されるアオサギについても同様で、私たちが養魚池で育てられた魚を食べることがなければアオサギは殺されません。また、自然河川でアオサギが駆除されるのは、漁業者が遊漁用に放流した魚(主にアユ)をアオサギが食べるからです。しかし、これも釣り人がいなければ、アオサギが殺されることはないでしょう。つまり、アオサギと直接利害関係のない人たちであっても、意識しているかしていないかにかかわらず、多かれ少なかれアオサギの駆除に関わりをもたざるを得ないということです。

そういう意味では、我々ひとりひとりがアオサギに対する加害者です。彼らの死に対する責任は、程度の差こそあれ我々ひとりひとりが負うべきものであり、だからこそ、その責任について各個人が真剣に考えていく必要があります。自分は関係ないからという認識を大多数の人々がもっている限り、社会全体の考え方は変わっていきません。見かけ上、直接の関わりがなくても結果的にはあらゆるものにコミットすることになる、それが現実のあり方なのだと発想を変える必要があります。これは何も特殊なことを言っているわけではありません。よくよく考えれば当たり前の話です。

もう一例。コロニーの近くに住んで、アオサギの糞の臭いや鳴き声に悩まされ、それが理由でアオサギが駆除される場合があります。これこそ、そこの人たちとアオサギだけの問題と思われるかもしれません。しかし、こうした場合もその周りの社会はそのことと決して無関係ではいられないはずです。なぜなら、トラブルに遭っている人たちのアオサギへの関わり方、あるいは野生動物についての生命の捉え方というのは、個人の個性が前面に出るにしても多分に社会通念に影響されているものだからです。普段の我々ひとりひとりの言動がその社会通念をつくっていきます。そういう意味では、現場にいない大多数の人たちもそこで行われる駆除に対して責任がないとは言えません。

少し話が飛びますが、以前、旭山の動物園からフラミンゴが脱走したとき、そのフラミンゴは「落とし物(遺失物)」として警察に届けられました。いかに法律用語とはいえ、この言葉からは生命ある存在に対する敬意が欠片も感じられません(旭山動物園に非はありません)。そういう特殊な例を挙げるまでもなく、メディアなどでは「アオサギが大発生した」とか「サギが大量に住み着いた」などという言葉がいつも平気で使われています。こういう不適切な言葉の使われ方がアオサギにとってマイナスに影響するのは間違いありません。些細なことですが、こういったことに目を向けるのもアオサギに対するひとつの責任のとり方だと思います。そして、むしろこうした身近にできることのほうが状況を効果的に改善できるのではと思うのです。

安易な考えで駆除申請する人や、いい加減な鳥獣管理行政に問題があるのは確かです。しかし、いくら彼らを責めたところで根本的な問題は解決しません。この問題は、突き詰めれば、我々ひとりひとりにその原因があるのだという認識がどうしても必要です。個人個人がこのことを自覚し、自分の責任として、身近なところから少しでもアオサギへの負の影響を減らすように行動していけば、アオサギの保全状況は僅かずつでも根底から改善されていくはずです。結局のところ、アオサギと共生できるかどうかは、私たちが加害者としての認識をもてるかどうか、そしてその認識を社会で共有できるかどうかにかかっているような気がします。


アオサギを救うために

現在の日本では、人間の無知、無理解のせいで、相当多くのアオサギが正当な理由もなく命を奪われています。そして、その惨状に大きく荷担しているのが有害鳥獣駆除の名で行われる大規模な捕殺です。これが正当な理由の駆除ならまだしも、そうでない出鱈目な駆除があまりに多いのです。その原因は至近的には駆除の許認可がいい加減になされていることにあります。そのことについては「アオサギの有害駆除に係る問題点に関する報告」にかなり詳しく書いたつもりです。興味のある方はぜひご一読ください。鳥獣行政のあまりの杜撰さにびっくりされることと思います。

とはいえ、この問題に対する非難の矛先を鳥獣行政の担当者に向けたところで事態は改善しません。問題は鳥獣行政システムそのものなのです。鳥獣行政に予算と人を今よりはるかに多くつぎ込まない限り今の状況はなかなか変わらないでしょう。ともかく、やらなければならないことに対してお金や人など必要なリソースが全然足りていないのです。いい加減な許認可業務もその結果としての理不尽な駆除もおおもとの原因を求めると全てそこに行き着きます。

しかし、だからといって手をこまねいていても仕方がありません。行政が自らできることをやってない部分については改善を求めていかなければなりませんが、それによって改善されることはたかが知れています。もっと大きく根本から直していこうとすれば行政担当者の鳥獣に対する意識改革がどうしても必要です。そして、それは我々一般人の意識改革でもあるわけです。結局、行政は世間の意識を反映しているのに過ぎませんから。世間の関心が低い問題に関しては行政も動かないわけで、当然のことながらそういうところにはお金も人も集まりません。行政の意識を変えようとすれば、まずは我々の意識を自ら変えていくしかないのです。

残念ながら、現状では野生動物の問題、とりわけ駆除の問題については人々の関心は決して高いとは言えません。これは当然のことで、被害がある人にとっては深刻な問題だけれども、そうでない大多数の人たちにとっては全く何の関係もない問題だからです。駆除の問題を自分に被害があるか無いかの面で捉える限り、この閉塞した現状は変えようも変わりようもありません。

そこで、今回は少し別の側面、より多くの人たちが関心をもつと思われることから駆除の問題にアプローチしてみたいと思います。端的に言えば動物の命をどう捉えるかということです。あるいは動物の権利についてどう考えるかという問題です。このことについてはじつは上記報告書の中でもわずかに触れています。「4.(9) コロニーでの駆除に係る問題」と「4.(10) 繁殖期の駆除に係る問題」がそれです。驚くべきことに、現在の鳥獣保護法ではコロニーでの駆除や繁殖期の駆除は明確には禁止されていないのです。もっとも、自治体によっては独自にこれらの行為を禁止するという規定を設けているところもありますし、こうした行為は鳥獣保護法の精神に反すると主張する担当者もいらっしゃいます。私もそう思いますし、鳥獣保護法の精神云々という以前に動物倫理上許されてはならない行為だと思っています。しかし、残念ながらそのように考えている担当者はごく僅かで、多くの自治体が繁殖期にコロニーで駆除するような乱暴な行為を許しているのです。

問題は、駆除を倫理的な側面で捉えようとする土壌が現在の鳥獣行政に無いことです。もっともこれは行政に限ったことではありません。生態学など実証科学に基づいたものしかまともな意見として受け入れず、動物の命だとか権利だとか言うと、その言葉だけで感情論として一蹴するという、何かにつけまことに幼稚で嘆かわしい雰囲気が今の日本にはあります。おそらくこの国で動物倫理の問題について自分なりの意見をもっている人はごく僅かだと思います。けれども、世界的に見ればこの種の問題は哲学の分野でも法学の分野でも極めてホットなトピックなのです。そして、最近ではそうした考えが実社会にも徐々に反映されてきています(事例123)。こうした事例があるからといって直ちにアオサギの人権がどうこうというわけではありません。しかし、駆除の問題を考える際に動物倫理的なアプローチの重要性が今後ますます高まってくるのは間違いないでしょう。

こうしたアプローチは言わば動物に対するモラルを見つけようとするものですから正解があるわけではありません。しかし、究極のコンセンサスは得られなくても、それぞれの局面で共通の認識を見つけていくことは可能です。そのためにはさまざまな意見を真面目に吟味することが何より必要ですし、吟味すればするほど動物に対する世間の認識は柔軟で強靱なものになります。そして、そのように世間の野生動物に対する関心を高めていけばいくほど鳥獣行政は駆除の問題により大きな関心を払わざるを得なくなり、結果的に不用な駆除は減っていくはずです。

どのくらい先のことになるか分かりませんが、いずれはアオサギにも何らかの権利が認められる、そういう時が来るでしょう。と書くと、たいていの方は何を馬鹿なことをと呆れられることと思います。実際、動物の権利の問題は簡単に説明できるものでも簡単に納得できるものでもありません。しかし、難しい問題だから、あるいは余計なことを言うと変な人と思われるからといって口をつぐんでいたのでは変わるものも変わりません。それは結局、杜撰な鳥獣行政や不当な駆除を間接的に助長することになってしまいます。権利というのは欲しい欲しいと声に出さなければ手に入りません。人間に理解できる言葉をアオサギがもたない以上、そうした彼らの訴えは我々が代弁するより他ないのです。


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