アオサギを議論するページ

シタン島コロニー

シタン島-1先日、道南のシタン島にあるコロニーを訪ねてきました。これほどの秘境にあるコロニーは国内にはまずないと思います。少なくとも道内にはありません。シタン島は矢越海岸(福島町)にある小さな島、というか岩ですが、ご覧のとおり人を容易に近づけない威容で周囲の景色の中でもひときわ目立っています。また、この島だけでなく、付近の海岸線一帯は軒並み切り立った崖になっており、船を利用してしか行けないようなところです。幸いなことにこの矢越海岸は知内町から小さな観光船が出ており、今回、シタン島へは海上からアプローチすることができました。利用したのは矢越クルーズさんの船で、1時間半、4,000円のクルーズです。私の場合はシタン島さえ確認できれば満足というものでしたが、矢越海岸は奇岩の林立するダイナミックな海岸美はもとより、途中、ミサゴの巣やウミウのコロニーも観察できますし、運が良ければシカやクマ、それにイルカの群れにも出会えるそうです。秘境の自然や野生動物に興味のある方にはまさに穴場の観光地だと思います。

DSCN0080さて、この島のどこにコロニーがあるのかということですが、違う角度から見たこちらの写真のほうが分かりいやすいかもしれません。島の大きさはてっぺん付近を左側に飛んでいるアオサギの大きさから想像してください。たぶん20mほどの高さだと思います。てっぺんに小さく見えるのが島名の由来になった紫檀の木です。昔撮られた写真を見ると、なんでこんなところにと思うようなけっこう立派な木ですが、いまはご覧のように枯れてごく一部が残っているのみです。この枯れ木にアオサギの巣が3巣かけられています。3巣だけ、と思うかもしれませんが、スペース的にそれで精一杯なのですね。木はそれだけで、周りに見える緑は岩にまとわりつくように生えている草本のようです。そして、その草の中にも巣がありました。葉が茂っているのでそのつもりで見ないと見逃してしまいますが、一枚目の写真で島のてっぺん近くにちょこんと座っているアオサギが確認できます。わずかに平らな猫の額ほどの地面に直接巣を構えているのです。そんな環境なのでコロニーの規模はささやかなもの。島全体で10巣前後といったところでしょうか。ともかく、規模こそ小さいもののこれほどの荒々しい環境に、しかも海上で地上営巣しているのですからアオサギコロニーとしては相当な規格外といえるかと思います。

問題はなぜそんな常ならぬところをわざわざ営巣地に選んだのかということです。このことについては昨年このコロニーの存在を知ったとき考えたことを書きとめておきました(「風変わりな営巣地(その2)」)。簡単にいうと、地上性の捕食者から逃げてきたのではないかと。ちょっと度を超しているような気もしますが、ここなら安心というわけです。北海道のアオサギの場合、地上性の捕食者はアライグマかヒグマのどちらかです。シタン島のサギたちはというと、両捕食者の生息状況から考えて、ヒグマに追われた可能性が高いのではないかと思います。

現地を知る地元の人の話では、シタン島のアオサギは少なくとも20年ほど前から営巣しているということです。つまり、見かけとは裏腹に、サギたちにはきちんと子育てができる場所とみなされているのでしょう。ただ、内陸にある一般的な樹上営巣のコロニーにくらべて、暮らしていく上でデメリットが多いのは否めないと思います。天気が荒れれば島から一歩も動けなくなりそうですし、10キロ近く飛ばないと餌場に辿り着けようなところですから。メリットはただ一点、クマに襲われないということだけです。

しかし、逆に考えれば、そのような場所でも場所があっただけ幸運なのかもしれません。こうした安全地帯を見つけることができず、毎年、クマやアライグマに襲われているコロニーがじつはあるかもしれないのです。北海道なら地続きである限りクマはどこに現れてもおかしくありませんし、また、これだけ全道に分布を広げたアライグマがこの先いなくなることはおそらくないでしょう。彼らとアオサギの遭遇はどこでも起こりえます。それを避けようとすれば人のいる町中かシタン島のような特殊な環境を選ぶしかないのです。実際、第二のシタン島ともいうべきコロニーが数年前に江差沖で確認されています(「風変わりな営巣地(その1)」)。そして、これらほど極端でないにしても、明らかに地上性の捕食者を避けていると思われる特殊な営巣形態が最近とみに増えてきているのです。

アオサギといえば常に樹上営巣という概念はもはや通用しません。次々に予想外のダイナミックな状況をつくりだす彼らのこと、今後、第三、第四のシタン島、あるいはさらに奇抜な営巣形態のコロニーがつくられる可能性は十分あると思います。特殊が特殊でなくなる日はそう遠くないのかもしれません。


アオサギの体格

もう長いことアオサギについていろいろ書いてきているわけですが、その割りにはどうでも良いような記事ばかりで、アオサギについての基本的な情報をほとんど書いてこなかったような気がします。たとえば、身体の大きさとか図鑑に載っているような情報ですね。そこで、今回はまさにその身体の大きさについて書いてみたいと思います。

以前は、アオサギは国内での生息数が少なかったというのもありますし、基本的に人への警戒心が強いということもあり、間近にアオサギと遭遇した人はそんなに多くありませんでした。それが、最近になって生息数も増え、とくに都市部のアオサギは人に慣れるようになったことで、至近距離でアオサギを見かける機会が格段に増えました。その結果、改めてアオサギの大きさに驚いたという人も多いのではないでしょうか。首を伸ばすと1m近くになり、翼を広げると大人が両腕を広げるよりもさらに大きく2m近く(175-195cm)に達します。そんなのがいきなり目の前に現れたら、小さな子供なら怖くて泣き出してしまうでしょう。

measureところで、野外では同じように見えるアオサギも、生きものですから当然一羽一羽体格が違います。雄と雌の間にも体サイズに違いがあることが分かっています。右の4つのグラフは雌雄の体格を比べたものですが、翼長、嘴峰長、ふ蹠長、体重のいずれの数値も雄が雌を上回っています。もちろん、グラフで雌雄の重複部分が多いことから分かるとおり、雄より体格の良い雌もたくさんいます。雌のほうが雄より大きいペアも普通にいると思います。なので、体格は雌雄判別の絶対的な指標にはなりません。私個人の観察経験からいうと、雄と雌の違いは体格よりもむしろ頭部のボリューム感の違いに表れるように思います。雄の頭は大きくがっちりしていて、雌の頭はほっそりと華奢な感じなのです。これはそのつもりで見ると案外区別できるものなので、つがいを観察する機会があればぜひチェックしてみて下さい。

体格については、雌雄の間で違いがあるように成鳥と幼鳥の間でも違いがみられます。これについては20年ほど前に弘前大学の前川さんと佐原さんが成鳥と幼鳥の嘴峰長を計測していて、予想どおり幼鳥のほうが短い(成鳥と亜成鳥:117mm (n=65)、1年目幼鳥:109mm (n=34))ことが分かっています。つまり、幼鳥は巣立ち時にはまだ成鳥のサイズには達してないということなのですね。なお、この研究では亜成鳥という語が使われていますが、これは大雑把に2年目の幼鳥とみなして差し支えないと思われます。

アオサギの体重については上のグラフで紹介したのよりもう少し極端な例も報告されています。これはドイツからの報告ですが、太ったアオサギは2,300gもあったそうです。そして、痩せ細ったアオサギはなんと810gしかなかったのだとか。

鳥はほぼ全身羽毛に覆われてますから、外見では大きさの違いがなかなか分かりません。けれども、実際はこなんなにも違うものなのですね。体重ではそれがとくに顕著です。餌獲りの下手な幼鳥はほんとうに食うや食わずで生きています。以前、死んだ幼鳥の胃の中を見たことがありますが、何の腹の足しにもならないような小さな水生昆虫が何匹か入っているだけでした。あれでは体重が1キロを切ってしまうのも頷けます。そんな絶望的な栄養状態にありながら、一方で身体も大きくしていかなければならない…。これは相当に大変なことだと思います。


『幻像のアオサギが飛ぶよ』書評

reviw当サイトの掲示板にもときどき投稿して下さっている佐原さんが、先日、『幻像のアオサギが飛ぶよ』という本を出されました。佐原さんはアオサギやゴイサギなど鳥や魚の生態を長年研究されてきた方ですが、今回の本はタイトルから推察されるように純粋な生物学からはかなりかけ離れた内容になっています。ひと言で言うと、アオサギと人の関わりを文化史の面から考察していったものです。この手の話には私も一方ならぬ関心があり、ことあるごとに当サイトでもあれこれ書き散らかしてきました。じつはそうした私の興味自体、佐原さんから相当な影響を受けてきたのです。

そんなことで、先日、新聞に同書の書評を書きました。掲載誌は佐原さんの地元である津軽地方の陸奥新報で、掲載日は4月1日です。書評を読んで興味をもたれた方は本のほうもぜひ読んでみて下さい。

人とアオサギの文化史

古来、人は動物にさまざまなイメージを付与してきた。アオサギにあってもそれは例外でない。例外でないどころか、イメージの豊かさという点では他のもっと身近な動物に勝るとも劣らないだろう。

本書は、そうしたアオサギのイメージ、「アオサギ観」に焦点を当て、人とアオサギの関わり合いの歴史を紐解いたものである。まずタイトルが印象的だ。これは近代詩の一節からとられたものだが、日本人のアオサギイメージの一典型として示されている。このように、著者は近代詩をはじめとした古今東西の文献資料を幅広く渉猟し、それら一連のテキストから日本人独特のアオサギ観を洗い出す。

そして、そこで浮き彫りになるのは「憂鬱で不気味な」アオサギである。一方、西洋のアオサギは「高貴で精悍だが孤独」だという。どこでこのような違いが生じたのか? なぜ日本のアオサギ観はこうもネガティブなのか? その理由として提示される事実はなかなか衝撃的だ。日本のアオサギはかつて妖怪視されていたというのである。ところが、時代をさらに遡ると田を守る穀霊であったともいう。穀霊から妖怪への大転換。なぜそんなことが起こったのか? そこにはまたシラサギを交えての新たな謎解きが控えているのだ。人とサギ類の関わりはかくも奥深い。

本書の特徴は、こうした謎解きが文献からの推測にとどまらず、生物学的事実に裏付けられていることにある。アオサギの登場するさまざまな文化史的テキストを縦糸に、生物学的知見を横糸に、日本人のアオサギ観を丁寧に織り上げる、これは相当にしんどい作業である。にもかかわらず、堅苦しさを感じることなく著者と一緒に謎解きが楽しめるのは、「(アオサギの)研究と並行して、アオサギゆかりの品々を集め始めた」という著者の軽やかで旺盛な好奇心が語りのそこかしこに感じられるからだろう。

なお、本書が単なる碩学の書ではないことは強調しておかなければならない。人とアオサギの関わりの歴史を通して生きものに親しみを感じ、ひいては生きものの保全に関心をもってほしい、それが本書に通底する著者からのメッセージである。本書を読んでアオサギと共有してきた歴史を心の内に感じられれば、アオサギはもはや得体の知れないよそ者ではない。もちろん妖怪でもない。いまや我々は共感できる隣人になり得るのである。


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