アオサギを議論するページ

アオサギと共生するために

去年の暮れ、アオサギの鳥獣管理行政の実態をまとめた報告書を公開しました。報告書の内容については以前ここで簡単に紹介したとおりです。ともかく、アオサギの不要な駆除が全国で横行していること、それが杜撰な行政によって助長されていることを少しでも多くの人に知ってもらいたかったのです。あれからほぼ一年、この件については想像以上に何の手応えもありませんでした。

もちろん、国や都道府県、一部の市町村には改善策を添えて要望書は出しています。ただ、私としては行政には端から何の期待もしていません。彼らと直に話してみて、理念やビジョンのある鳥獣管理を行っている人はほんの一握りしかいないことが痛いほど分かったからです。どの担当者も個人として一生懸命働いていることは疑いません。しかし、鳥獣管理を行う上で重要なこと、たとえば野生動物と人との関係性の認識や、生命に対する哲学的、倫理学的な考察、共生のための保全生物学的なアプローチといったことに彼らが関心をもっているとはどうしても思えないのです。それどころか最低限の科学的方法論さえとられてなかったり、果ては鳥獣保護法さえ碌に理解されていなかったりというのが実情でした。

それでも業務自体は支障なく動いていくわけです。もちろんそれで良いというわけではなく、そのつけは今のところ全部アオサギが払っています。アオサギだけに特別なことが起こっているわけではありあません。他の野生動物も多かれ少なかれ似たような状況に置かれているはずです。こんな理不尽なことが問題視されず放置されてよいはずがありません。

とはいえ、行政への働きかけには自ずと限界があります。とくに事務的な問題でなく、上述したような意識の欠如が問題である場合、彼らにあれこれ言ったところで暖簾に腕押しでしょう。結局、彼らの意識は我々の意識の反映でもあるわけですから、世間の意識が変わらないことには彼らの意識は変えられないということだと思います。

ところが、我々の意識はどうかというと、こちらも問題で、ほとんどの人はアオサギに駆除の問題があることすら気にかけていません。そればかりか、アオサギという名すら知らずに生涯を送る人も多いことでしょう。これはアオサギとのトラブルが極めて局所的な問題であることに原因があります。被害を被るのは限られた地域のわずかな人たちです。たとえば、田んぼの所有者であったり、川にアユを放流している漁協であったり、釣り堀や養魚をしている人たちであったり、それにコロニーのすぐ傍に住んでいる人たちもそうですね。アオサギは全国各地にいますが、それでもこのようなトラブルは全体から見ると局所的な特殊事例に過ぎません。トラブルに直接関わりのある人もごくわずか。他の大多数の人たちは、普段アオサギとは何の関わりもなく、何が行われているかを気にかけることもなく暮らしているということです。

しかし、本当に我々はアオサギとそこで行われている駆除に関わりはないのでしょうか? 田んぼに入るアオサギが駆除されるのは、彼らが稲の苗を踏みつけるからで、米を食べる私たちがいなければアオサギが殺されることもありません。養魚場で殺されるアオサギについても同様で、私たちが養魚池で育てられた魚を食べることがなければアオサギは殺されません。また、自然河川でアオサギが駆除されるのは、漁業者が遊漁用に放流した魚(主にアユ)をアオサギが食べるからです。しかし、これも釣り人がいなければ、アオサギが殺されることはないでしょう。つまり、アオサギと直接利害関係のない人たちであっても、意識しているかしていないかにかかわらず、多かれ少なかれアオサギの駆除に関わりをもたざるを得ないということです。

そういう意味では、我々ひとりひとりがアオサギに対する加害者です。彼らの死に対する責任は、程度の差こそあれ我々ひとりひとりが負うべきものであり、だからこそ、その責任について各個人が真剣に考えていく必要があります。自分は関係ないからという認識を大多数の人々がもっている限り、社会全体の考え方は変わっていきません。見かけ上、直接の関わりがなくても結果的にはあらゆるものにコミットすることになる、それが現実のあり方なのだと発想を変える必要があります。これは何も特殊なことを言っているわけではありません。よくよく考えれば当たり前の話です。

もう一例。コロニーの近くに住んで、アオサギの糞の臭いや鳴き声に悩まされ、それが理由でアオサギが駆除される場合があります。これこそ、そこの人たちとアオサギだけの問題と思われるかもしれません。しかし、こうした場合もその周りの社会はそのことと決して無関係ではいられないはずです。なぜなら、トラブルに遭っている人たちのアオサギへの関わり方、あるいは野生動物についての生命の捉え方というのは、個人の個性が前面に出るにしても多分に社会通念に影響されているものだからです。普段の我々ひとりひとりの言動がその社会通念をつくっていきます。そういう意味では、現場にいない大多数の人たちもそこで行われる駆除に対して責任がないとは言えません。

少し話が飛びますが、以前、旭山の動物園からフラミンゴが脱走したとき、そのフラミンゴは「落とし物(遺失物)」として警察に届けられました。いかに法律用語とはいえ、この言葉からは生命ある存在に対する敬意が欠片も感じられません(旭山動物園に非はありません)。そういう特殊な例を挙げるまでもなく、メディアなどでは「アオサギが大発生した」とか「サギが大量に住み着いた」などという言葉がいつも平気で使われています。こういう不適切な言葉の使われ方がアオサギにとってマイナスに影響するのは間違いありません。些細なことですが、こういったことに目を向けるのもアオサギに対するひとつの責任のとり方だと思います。そして、むしろこうした身近にできることのほうが状況を効果的に改善できるのではと思うのです。

安易な考えで駆除申請する人や、いい加減な鳥獣管理行政に問題があるのは確かです。しかし、いくら彼らを責めたところで根本的な問題は解決しません。この問題は、突き詰めれば、我々ひとりひとりにその原因があるのだという認識がどうしても必要です。個人個人がこのことを自覚し、自分の責任として、身近なところから少しでもアオサギへの負の影響を減らすように行動していけば、アオサギの保全状況は僅かずつでも根底から改善されていくはずです。結局のところ、アオサギと共生できるかどうかは、私たちが加害者としての認識をもてるかどうか、そしてその認識を社会で共有できるかどうかにかかっているような気がします。

アオサギを救うために

現在の日本では、人間の無知、無理解のせいで、相当多くのアオサギが正当な理由もなく命を奪われています。そして、その惨状に大きく荷担しているのが有害鳥獣駆除の名で行われる大規模な捕殺です。これが正当な理由の駆除ならまだしも、そうでない出鱈目な駆除があまりに多いのです。その原因は至近的には駆除の許認可がいい加減になされていることにあります。そのことについては「アオサギの有害駆除に係る問題点に関する報告」にかなり詳しく書いたつもりです。興味のある方はぜひご一読ください。鳥獣行政のあまりの杜撰さにびっくりされることと思います。

とはいえ、この問題に対する非難の矛先を鳥獣行政の担当者に向けたところで事態は改善しません。問題は鳥獣行政システムそのものなのです。鳥獣行政に予算と人を今よりはるかに多くつぎ込まない限り今の状況はなかなか変わらないでしょう。ともかく、やらなければならないことに対してお金や人など必要なリソースが全然足りていないのです。いい加減な許認可業務もその結果としての理不尽な駆除もおおもとの原因を求めると全てそこに行き着きます。

しかし、だからといって手をこまねいていても仕方がありません。行政が自らできることをやってない部分については改善を求めていかなければなりませんが、それによって改善されることはたかが知れています。もっと大きく根本から直していこうとすれば行政担当者の鳥獣に対する意識改革がどうしても必要です。そして、それは我々一般人の意識改革でもあるわけです。結局、行政は世間の意識を反映しているのに過ぎませんから。世間の関心が低い問題に関しては行政も動かないわけで、当然のことながらそういうところにはお金も人も集まりません。行政の意識を変えようとすれば、まずは我々の意識を自ら変えていくしかないのです。

残念ながら、現状では野生動物の問題、とりわけ駆除の問題については人々の関心は決して高いとは言えません。これは当然のことで、被害がある人にとっては深刻な問題だけれども、そうでない大多数の人たちにとっては全く何の関係もない問題だからです。駆除の問題を自分に被害があるか無いかの面で捉える限り、この閉塞した現状は変えようも変わりようもありません。

そこで、今回は少し別の側面、より多くの人たちが関心をもつと思われることから駆除の問題にアプローチしてみたいと思います。端的に言えば動物の命をどう捉えるかということです。あるいは動物の権利についてどう考えるかという問題です。このことについてはじつは上記報告書の中でもわずかに触れています。「4.(9) コロニーでの駆除に係る問題」と「4.(10) 繁殖期の駆除に係る問題」がそれです。驚くべきことに、現在の鳥獣保護法ではコロニーでの駆除や繁殖期の駆除は明確には禁止されていないのです。もっとも、自治体によっては独自にこれらの行為を禁止するという規定を設けているところもありますし、こうした行為は鳥獣保護法の精神に反すると主張する担当者もいらっしゃいます。私もそう思いますし、鳥獣保護法の精神云々という以前に動物倫理上許されてはならない行為だと思っています。しかし、残念ながらそのように考えている担当者はごく僅かで、多くの自治体が繁殖期にコロニーで駆除するような乱暴な行為を許しているのです。

問題は、駆除を倫理的な側面で捉えようとする土壌が現在の鳥獣行政に無いことです。もっともこれは行政に限ったことではありません。生態学など実証科学に基づいたものしかまともな意見として受け入れず、動物の命だとか権利だとか言うと、その言葉だけで感情論として一蹴するという、何かにつけまことに幼稚で嘆かわしい雰囲気が今の日本にはあります。おそらくこの国で動物倫理の問題について自分なりの意見をもっている人はごく僅かだと思います。けれども、世界的に見ればこの種の問題は哲学の分野でも法学の分野でも極めてホットなトピックなのです。そして、最近ではそうした考えが実社会にも徐々に反映されてきています(事例123)。こうした事例があるからといって直ちにアオサギの人権がどうこうというわけではありません。しかし、駆除の問題を考える際に動物倫理的なアプローチの重要性が今後ますます高まってくるのは間違いないでしょう。

こうしたアプローチは言わば動物に対するモラルを見つけようとするものですから正解があるわけではありません。しかし、究極のコンセンサスは得られなくても、それぞれの局面で共通の認識を見つけていくことは可能です。そのためにはさまざまな意見を真面目に吟味することが何より必要ですし、吟味すればするほど動物に対する世間の認識は柔軟で強靱なものになります。そして、そのように世間の野生動物に対する関心を高めていけばいくほど鳥獣行政は駆除の問題により大きな関心を払わざるを得なくなり、結果的に不用な駆除は減っていくはずです。

どのくらい先のことになるか分かりませんが、いずれはアオサギにも何らかの権利が認められる、そういう時が来るでしょう。と書くと、たいていの方は何を馬鹿なことをと呆れられることと思います。実際、動物の権利の問題は簡単に説明できるものでも簡単に納得できるものでもありません。しかし、難しい問題だから、あるいは余計なことを言うと変な人と思われるからといって口をつぐんでいたのでは変わるものも変わりません。それは結局、杜撰な鳥獣行政や不当な駆除を間接的に助長することになってしまいます。権利というのは欲しい欲しいと声に出さなければ手に入りません。人間に理解できる言葉をアオサギがもたない以上、そうした彼らの訴えは我々が代弁するより他ないのです。

あまりに杜撰な鳥獣管理

先日、北海道アオサギ研究会のほうで鳥獣管理行政についての報告書をまとめました。報告書は「アオサギの有害駆除に係る問題点に関する報告」というもので、行政に対する批判を書き連ねた内容になっています。読んでいただけば、行政のあまりのひどさにびっくりされることと思います。ただ、こんな風に紹介したところで、この手の報告書はまず読まれないのですね。よほどの関心がない限り。そこで今回は報告書を読まなくても問題の概要が分かってもらえるように、ここで内容をかいつまんで紹介したいと思います。これを機に鳥獣管理行政の実態に少しでも問題意識をもっていただければ幸いです。

figそもそもなぜこんな調査をはじめたかというと、アオサギの駆除数の異常な激増ぶりを知ったことが発端でした。右の図はここでも度々ご紹介してきたのでご記憶の方もいらっしゃるかと思います。全国の駆除数の経年変化を示したもので、平成8年に8羽だった駆除数が平成22年には3,412羽にまで増加しています。近年になってアオサギが増えたことはほぼ間違いありませんが、それだけでここまで極端な事象は説明できません。そこで、その原因を鳥獣管理行政に求めたのが今回の報告書というわけです。調べてみると、案の定とんでもない状況が明らかになりました。以下にその一端をご紹介したいと思います。

ともかく駆除が安易に許可されすぎているのです。本来、駆除とはどうしようもない場合の最終手段であって、徹底的に防除を行ってもまるで被害が収まらず、人的、経済的被害が甚大で、とても許容できるレベルでないとなった場合に止むを得ず鳥獣を犠牲にするものです。このことは鳥獣保護法にもはっきり書かれています。それが、防除すら行わずにいきなり駆除申請し、しかもそれが難なく許可されるケースがあまりに多いのです。一応、防除を行っている場合でも、被害額が示されていなかったり、被害額が示されている場合でも根拠が出鱈目だったり、この辺のいい加減さは数え上げれば切りがありません。ひどい場合には、何の被害なのかも知らずに駆除が許可されているのです。単に「有害だから」というのが理由として認められ、それだけで駆除が許可されるわけです。法の規定もへったくれもありません。もちろんこれは極端な例ですが、鳥獣管理行政では全国的にこのようないい加減さが蔓延しています。これを大袈裟と思われる方はぜひ報告書のほうに目を通してみてください。

それにしても、なぜこのようなことが放置されているのでしょうか。端的に言えば、行政が鳥獣管理をまともに実施していくだけの人的リソースや予算をもっていないことが原因です。限られたリソースの中で鳥獣管理を行おうとすれば、どうしても希少鳥獣の保護や被害の大きい特定鳥獣などへの対応が優先され、アオサギなどのいわゆる一般鳥獣への対応は後回し、というか、ほぼ無視されることになります。たとえばこれが人の生活に関わってくる問題であれば、不満をもつ人たちがそのうち声を上げることになるのでしょう。しかし、そこはもの言わぬアオサギのこと、行政に彼らの苦情が届くはずもなく、問題が表面化することのないまま駆除数だけが毎年異常なペースで増え続けているのです。

人がいない予算が無いというのはたしかに深刻な問題です。実際、市町村では、鳥獣管理の担当者がいても課として独立した部署があるわけではなく、産業振興課とか農林土木課といったところで細々と仕事をしている場合が大半です。それでもその担当者が鳥獣管理についてのきちんとした見識をもっていれば問題はありません。しかし、人材が豊富な大都市ならともかく、限られた数の職員しかいない小さな町や村にそれを期待するのはかなり難しいと思います。許認可業務の手順をこなすことはできても、駆除を行うべきか否かといったことについては、鳥獣の生態についての十分な知識と、さらに言えば動物に対する適切な倫理観がなければ正しい判断は下せないからです。もっとも、担当者ひとりの判断で事が動いているわけではないと思います。鳥獣保護員や地域の識者に意見を求めるなどできることはやっているはずです。しかし、それで上手くいっていないことは今回の調査結果であまりにも明らかです。

ところで、このように書くと、ここで問題視しているのが市町村だけのように思われるかもしれませんが、問題なのは都道府県も同じです。というのは、駆除の許認可業務は都道府県主体で行っている場合もあるからです。そもそもアオサギ駆除の許認可業務はもともとは国の仕事でした。それが小泉政権のときに何でもかんでも地方分権推進ということで、駆除の許認可業務が都道府県に移され、それだけでなく、都道府県が市町村へ同権限の委譲を行うことも可能になったのです。なので、現在の駆除業務は都道府県自ら行っている場合もあれば市町村が行っている場合もあります。そして、どちらがやったところでそのいい加減さにたいした違いはありません。実際、都道府県の鳥獣管理行政も市町村のそれに勝るとも劣らないほど問題が多いのです。なにしろ鳥獣保護法の規定すらろくに理解していない人もいるくらいですから。逆に、市町村のほうでは都道府県の担当者などより鳥獣管理についてはるかに深い見識をもつ担当者もいますし、地域密着の視点をもてるという市町村ならではの利点を活かし理想的な鳥獣管理ができている場合もあります。結局のところ、都道府県も市町村も担当者次第なのですね。ただそうは言っても、平均的な話としては、都道府県と市町村では駆除への対応に差があることは認めなければならないと思います。単純な事務処理は別として、駆除を行うべきか否かといった総合的な判断が求められるところでは一定レベル以上の専門性がどうしても必要になります。そうなるとそれだけの人材がいるのかという話になりますが、市町村ではもとよりいないところのほうが多いでしょう。にもかかわらず、そういった本来であれば業務を受ける資格のない市町村が駆除を行っているのが実情なのです。たとえば、市町村の中には、対処捕獲(被害が発生してから行う駆除)や予察捕獲(年間計画に基づいた駆除)といった駆除を行う上での基本的な用語さえ知らない担当者がいたりします。こういったことはさすがに都道府県ではありません。都道府県は最低でもこのレベルは保っているだろうというのがありますが、市町村ではその底が無く、ダメなところは徹底的にダメなのです。そういうダメな市町村に鳥獣の駆除業務が任せられると、アオサギの運命はもう悲惨というほかありません。

その無茶苦茶な鳥獣管理行政の実態を具体的にご紹介しようと思って今回書きはじめたのですが、前置きだけでこんなに長くなってしまいました。年の瀬の慌ただしい折、こんなサイトで時間を潰していただける御奇特な方はあまりいらっしゃらないかと思います。ということで、つづきは年が改まったらまた少しずつ書いていきます。その時はまたお付き合いください。なお、今回の話題については異論のある方も多いと思いますし、さまざまな観点から大いに議論が必要と考えています。ご意見などありましたら掲示板もしくはtwitterのほうまでぜひお寄せください。行政関係者のご意見も大歓迎です。

では皆さん、良いお年をお迎えください。

鳥獣保護法の指針のパブコメ受付中

明日ははや10月なんですね。どうりでアオサギが渡るはずです。ネットを見ていると渡りの観察報告をしばしば目にするようになりました。おそらく今この瞬間にも国内のあちこちで南への移動が続いているのでしょう。8月半ばに繁殖シーズンを終えたばかりなのに、もう去らなければならないとはなんとも慌ただしいですね。

さて、このところ鳥獣管理行政のことを何度か書いてきましたが、今回もまた同じような話題になります。今回取り上げるのは改正された鳥獣保護法。これがまた激しく引っかかる部分があるのです。鳥獣保護法の改正については昨年の暮れにここでもあれこれ書いたことがあります。当時はまだ改正案がつくられる前の段階で、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化につき講ずべき措置について(答申素案)」についてのパブリックコメントが行われている最中でした。その後、同案について中央環境審議会自然環境部会というところで3回ほど審議が行われ、さらに国会での審議を経て5月21日に改正法が成立(5月30日公布)しています。これは来年の5月に施行されます。

ところで、ここで不思議なのは、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化につき講ずべき措置について(答申素案)」は「鳥獣の保護及び管理のあり方検討小委員会」とその後の自然環境部会で繰り返し審議されているのですが、改正案そのものについては何の審議もなされていないことです。改正案は自然環境部会の2回目と3回目の間につくられています。ただ、3回目の部会というのは、事務局からのこんな案になりましたという報告のみで実際の審議はありません。結局、改正案は国会での審議だけということになるわけです。もちろんパブリックコメントもありません。行政のことは何も分からないのでそれが普通だと言われればそれまでですが、どうも納得できませんね。

昨年暮れのパブコメは改正内容についての基本的な考え方が示されていただけで、法そのものを示したものではありませんでした。もちろんパブコメの意見やその後に審議された内容が忠実に改正案に反映されているのならそれで構いません。ところが実際は、最後に事務局が独自に改正案をまとめ、それまでの審議で十分に合意されていない内容が突然ぽーんと出てくるのです。なんだか狐につままれたような感じです。

ともかく、気になる方は改正された鳥獣保護法(変更箇所のみ)を一度御覧ください。いろいろおかしいところが見つかるかと思います。私がとくに問題だと思うのは以下の部分です。

第2条の3 この法律において鳥獣について「管理」とは、生物の多様性の確保、生活環境の保全又は農林水産業の健全な発展を図る観点から、その生息数を適正な水準に減少させ、又はその生息地を適正な範囲に縮小させることをいう。

これは鳥獣保護法の中での言葉の定義を述べたものです。「管理」という語がこのように勝手に定義されています。「管理」という言葉については、自然環境部会だけでなく、部会の下にある小委員会やパブコメでも何かと問題になっていましたが、議事録を見ても誰もこんなふうに定義しろとは言っていません。こんな内容が専門家の審議やパブコメを通さずに事務局の一存で法として成立してしまうとはどういうことなのでしょう? たしかに言葉の定義は必要ですが、「管理」という語はこの法律の核心となる語であり、とりあえずこんなふうに定義してみましたで済むようなものではありません。しかも、定義の内容がおかしい。この「管理」が言わんとしているのは、つまるところ駆除そのものです。駆除でない部分も若干想定できるから敢えて捕獲や駆除などの表現を避けたのかもしれませんが、本来の管理という語と違う用い方をしているために混乱を招くもとになっています。ちなみに、この定義の直前には「保護」の語が定義されています。その定義は「管理」のちょうど逆で、「生息数を適正な水準に増加させ、若しくはその生息地を適正な範囲に拡大させ」るというものです。本来、駆除にしろ保護にしろ、鳥獣を管理するためのアプローチのはず。どちらも管理なのです。ところが、駆除の代わりに管理という語を使い、保護は管理ではないという、もう何が何だか訳の分からないことになっています。よほど駆除という言葉を用いるのが嫌なのでしょうね。

ところで、ここに書かれた「適正な水準」や「適正な範囲」の「適正」というのは何なのでしょう? 何を基準に適正と言っているかがまず分かりません。今回の法改正は、じつはシカとイノシシの個体数を減らすことがメイン、というか、ほぼそれだけのための法改正です。なので、この「適正な水準」も、シカやイノシシの個体数がまず想定されているのは間違いありません。しかし、それならそのことがはっきり分かるような書き方をすべきで、その考え方を他の鳥獣に対しても同じように適用させようとするのはあまりに乱暴です。たとえばシカが増えたのは、もとをただせばオオカミなどの捕食者がいなくなったからです。その場合は、捕食者がいる状況での個体数を基準にして「適正な水準」を考えることもできるかもしれません。けれども、アオサギなどの場合は、もともと捕食者がいないため、生態系が許容する範囲を超えて個体数が増えるということは今も昔も原理的にあり得ません。生態学的に見れば、彼らの個体数に適正な水準という概念は成り立たないのです。

適正とか適切などという言葉はお役所言葉の最たるもので何の意味もありません。何かまっとうなことを書いているようでいて、その実、何も書いていないのと同じです。少なくとも科学的な書き方が必要な文に使う単語ではありません。「適正な水準」の話ではありませんが、今回の答申案については審議会の委員からも科学的でないと散々文句を言われていました。実際、そのとおりなのです。審議内容については、部会の第20回から第22回と小委員会の第1回から第8回の議事録にすべて載っていますので、興味のある方はぜひご確認ください。

これらの議事録を見てみると、スケジュールが立て込んでいるとはいえ、さまざまな課題が次の宿題ということで先送りされ、生煮えのまま法律ができあがっていく様子がよく分かります。先に書いたとおり、今回の法改正はシカやイノシシへの対処に焦点を絞ったものです。しかし、法そのものが改正される以上、影響を受けるのはシカやイノシシだけとは限りません。よほど考え抜かれたものでないと、それ以外の鳥獣に想定外の負担(たとえば過剰な捕獲圧など)がかかってきます。「適正な水準」の問題はそのひとつに過ぎません。ともかく、いろいろと不完全、あっちもこっちも不備だらけの法律なのです。以下の引用は自然環境部会の議事録にあった事務局の答弁ですが、これだけ見ても今回の法改正がいかに不完全なものかが分かるかと思います。

(シカやイノシシの駆除の)仕組みはできるとしても、その先に何を目標に鳥獣管理をしていくかというのは、まだまだこれから議論が必要だと考えています。

まるで逆ですね。ふつうは目標を立てて、それに合わせて仕組みをつくっていくものです。目標のない鳥獣管理とはいったい何なのでしょう? 恐ろしいことです。

じつは、今回の鳥獣保護法の改正にともない、同法の指針も変更されることになり、その変更内容について、現在、以下のように意見の募集が行われています。

「鳥獣の保護及び管理を図るための事業を実施するための基本的な指針(変更案)」について、広く国民の皆様から御意見をお聞きするため、平成26年9月16日(火)から10月16日(木)までの間、意見の募集(パブリックコメント)を行います。

鳥獣保護法の指針ということで、ここにも「管理」や「適正な水準」など、今回取り上げたのと同じ問題が山積しています。改正法のほうはすでに成立してしまいましたが、こちらはまだ間に合います。関心のある方はぜひ御一考を。

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