アオサギを議論するページ

風変わりな営巣地(その1)

アオサギの巣といえば、仰ぎ見るような高木にかけられているというのが一般的なイメージだと思います。ところが、そのような場所ばかりとは限らないのですね。先日、道南のほうを回った際、通常のコロニーとはひと味もふた味も違った特殊なコロニーをいくつか見かけました。今回はそんな風変わりなコロニーのうちのひとつをご紹介したいと思います。

江差-2所は日本海に面する江差町。ここのサギたちが営巣に利用しているのは高木どころか樹木ですらありません。地面に直接巣を置いているのです。写真の小島が彼らの営巣場所。見てのとおりがらがらの岩場です。アオサギの営巣環境としてこれほど極端なところは少なくとも国内では他にないでしょう。

江差この島、というより岩礁は、江差町の沖合300mほどのところにあります。海面からの高さはおよそ15、6m。上のほうだけ拡大したのが左の写真で、上部数mのところにいくつもの巣があるのがお分かりいただけるかと思います。この写真の範囲だけで少なくとも約20の巣が見えています。てっぺんから稜線にかけての比較的平らなところだけでなく、手前の断崖にもいくつもの巣が見られます。どのように巣材を組んでいるのか分かりませんが、これらの巣は明らかに岩の側面にひさし状にかけられています。まるで岩にへばりついているかのような巣。ここまでするのかという感じです。これまでもアオサギのすることには度々驚かされましたが、こんなのを見ると彼らに出来ないことは無いのではないかとすら思えてきます。

ところで、この岩の上につくられた巣は何を巣材にしているのでしょう? 見たところ巣自体は一般的なコロニーと同じで巣材には小枝が用いられているようです。もちろん岩礁そのものには1本の木も生えていません。小枝が必要なら海を越えて樹林のあるところまで採りに行かなければならないのです。近場で集めるとしても往復1キロ近く飛ばなければなりません。彼らが運べるのは1度に1本だけですから、往復して1本、10往復してもきっかり10本です。写真のような立派な巣をつくるためには少なくとも2、300回は行き来しなければならないでしょう。巣づくりひとつとってもこんなに大変な労力が要るわけです。その上、吹きっさらしの場所であることは御覧のとおり。物理的な条件のみを考えても少なくとも道内ではもっとも過酷な営巣環境といえると思います。

ssそんな場所をわざわざ選ぶからにはよほどの理由があったのに違いありません。彼らの環境適応力がいかに高くとも好き好んでこんなところには来ないでしょうから。彼らがここに来たのは比較的最近のこと。それ以前は海と丘を越えた1.6キロほど先の樹林で暮らしていました(右図)。目の前に小さな池を抱えるひっそりした谷間、現在の場所から見ればまるで桃源郷のようなところです。そんな場所を彼らはなぜ捨てなければならなかったのか、その理由は分かっていません。物理環境の過酷さに耐えきれなかったというのはまずあり得ないでしょう。すぐ近くに新たなコロニーをつくったことを考えれば餌場に問題があったとも思われません。となれば、やはり食べられる襲われるといった直接的な身の危険があったと考えるのがもっとも合理的。人かそうでなければ何か他の動物が彼らの営巣活動に深刻な障害となっていたのだと思います。具体的なことは推測するしかありませんが、これについては次回、他の風変わりなコロニーを紹介した後であらためて考えてみるつもりです。

なお、この岩礁上のコロニーは陸上から容易に観察できます。陸から300m以上離れているため肉眼での観察は難しいと思いますが、20倍ていどのスコープがあれば上の写真ぐらいには見えるはずです。国道脇にたまたま良い駐車スペースがあり、そこからサギたちのいる岩礁が一望のもとに見渡せます。駐車スペースは厚沢部方面から江差市街に向かって、海沿いの最初の坂を登り切った右側にあります。何も遮るもののない気持ちの良い高台で、まるでアオサギ島の観察用につくられたのではと錯覚するほどです。あちらに用のある方はぜひ立ち寄ってみてください。お勧めです!

【追記】国土地理院の2万5千図で調べてみたところ、この岩には名前があってノコロップ岩と呼ばれているそうです。

特別なアオサギ

《注意》この記事はエイプリルフール用に書いたもので9割方は真っ赤な嘘です。当日、疑いを抱くことなく読んでいただいた方々に心から感謝申し上げます。

4月を迎えここ北海道のアオサギの営巣活動もいよいよ本格化してきました。今は彼らがもっとも美しく見える時期ですね。くちばしや脚、虹彩が鮮やかな婚姻色に染まり、繁殖羽や冠羽もきれいに伸びています。そして、今はとかく変わり者のアオサギに出会うことの多い季節でもあります。

何年前でしたか、当サイトで青灰色の瞳をもつアオサギを紹介したことがあります。あれはスイスで1羽だけ確認された特殊事例でしたが、繁殖初期に特異的に発現する変異現象のひとつということで説明されていました。いわゆる、一般に婚姻色や繁殖羽として現れるこの時期特有の変化が別の様態で現れたものと解釈されているわけです。こうした変異は他にもいくつか観察されていて、側頭から冠羽にかけての黒い羽毛が鮮やかな青紫色に変色した例や、背中の繁殖羽(白い蓑毛部分)がことごとくカールした例などが知られています。また、観察例はごく僅かながら、猫のような声(どちらかというとウミネコに近い)で鳴いたり、瞬間的に背面飛行したりといった奇妙な行動が観察されているのもこの時期です。なお、このような特殊事例の観察報告はロシア鳥学会の”Ложние Птицы”という学会誌がよく取り上げていますので、アオサギに限らず例外的な形態や行動に興味のある方はぜひ一度検索してみてください。本文はロシア語ですがGoogleなどの翻訳を通せばおおよそのことは分かるかと思います。

DSというわけで、この時期には何かと変わったサギがいるので目が離せません。そしてつい先日、私もその仲間入りができるのではないかと思われるサギを目撃しました。それが写真のアオサギです。いかがでしょう? 冠羽がここまで派手なアオサギはなかなかいないと思います。アオサギは警戒したり相手を威嚇したりする時など羽毛を逆立てることがあって、これは冠羽も例外ではありません。写真の場面も隣のペアと小競り合いしていた時にたまたま撮したものです。ただ、アオサギの冠羽というのは本来見せびらかすようなものではなく、2本か3本が控えめに付いているのが普通です。ところが、このアオサギには長く伸びたものだけでもちょうど10本もあります。カンムリヅルあたりに憧れて育ったのかどうか知りませんが、これはちょっとやりすぎという感じはしますね。相手を威嚇するとき多少の虚仮威しにはなるかもしれませんけど。

44777ところでこの写真、ただ珍しいというだけではなさそうなのです。話は古代エジプトに飛びます。右の絵は当時の『死者の書』(死者が楽園に行くための案内書のようなもの。死者とともに棺の中に収められている)に描かれたベヌウの挿絵です。ベヌウについては当サイトでも過去に何度か紹介していますが、エジプト神話にたびたび登場する聖鳥で、ラーやオシリスといった神々の化身のような存在です。このベヌウは絵を見て分かるとおりアオサギがモデルとされています。左が本来のベヌウでアオサギのように冠羽が2本あります。この2本というのは数として決まっていてベヌウが描かれるときは必ず2本です。ついでに言えば、ヒエログリフ(象形文字)に描かれるときも2本です。ところが、右のように多数の冠羽をもつベヌウが描かれる場面がたった一箇所だけあるのですね。これは同書第84章に描かれた挿絵で、この章には死者が「至高の」ベヌウに変身するための呪文が記されています。ちなみに左のほうはそのひとつ前の第83章、普通のベヌウに変身する場合の呪文の挿絵です。要するに、冠羽の多さで貴さのランク付けをしているわけです。

この「至高の」ベヌウについてざっと調べたところ、一般的に受け入れられている説は、余分の冠羽はベヌウと「至高の」ベヌウを単に視覚的に区分するための脚色に過ぎないというものでした。また、メンフィス大学で動物神を専門に研究しているマフムード・ケアルブ・ケルザーブさんのように、モデルはアオサギではなく、紀元前2000年頃に絶滅したArdea gigant(英名:Giant Heron、翼開長は2.3mでアオサギより二回りほど大きい)ではないかと考えている人たちもいます。ただ、この説は冠羽が化石として残っていないため残念ながら憶測の域を出ません。ともかく、いずれの説も実物のアオサギには数本の冠羽しかないという前提がもとになっているわけです。しかし、その前提は見事に崩れ去りました。こうなった以上、エジプト考古学会も考えを改めざるを得ないでしょう。

つまり、「至高の」ベヌウは神話上の存在ですが、そのモデルはリアルな世界に実在するということです。もちろん、そんなアオサギにはよほどのことがない限りお目にかかれるものではないでしょう。それでも、この時期のコロニーであればそのチャンスがまったく無いとは言い切れません。アオサギが隣どうしで威嚇し合っているとき、あるいはワシなどの不意の襲来に警戒したとき、何かの拍子に冠羽を逆立てる場面は必ずあります。そしてその瞬間、そこに華やかに冠羽を広げたアオサギがいる、その可能性は決してゼロではありません。もしそんな特別なアオサギに巡り会えたなら、それはきっと何かとんでもなく素晴らしいことの予兆です。そう、今日が四月最初の特別な日でなければ!

今年も順調に飛来中

3月も下旬になり、ここ北海道にもアオサギが続々と渡って来ています。今この瞬間にも、皆さんの頭上を北を目指して飛んでいるサギたちがいるかもしれません。ただ、彼らの渡りはひっそりと行われることが多く、なかなか人目に付きません。というのも、ガンやハクチョウのように飛びながら鳴き交わすということがあまりない上、群れそのものが小さいからなのですね。秋の渡りでは、本州のほうでときに100羽を超えるような大集団になることがあるそうですが、普通は十数羽ほどの小さな群れのはず。大きな鳥だとはいえ、渡り時にはいつもと違ってかなり高空を飛びますし、ほとんど声もなく群れも小さい。となれば、目にする機会がないのも不思議ではありません。結局、いつの間にかいなくなる、いつの間にか来ている、というのがアオサギの渡りなのです。

figしかも、彼らの渡りは時期もばらばら。3月半ばに飛来する気の早いサギがいる一方、4月も末になってようやく到着するのんびりしたサギもいます。どこかに渡りのピークがあるというわけでもなく、少しずつ少しずつ渡ってくるわけです。そのことはコロニーを観察しているとよく分かります。右のグラフは私が時々観察に行っている江別コロニーのものですが、毎年だいたいこんな感じで、4月下旬まで巣の数がほぼ一定のペースで増えていきます。他のコロニーも少なくとも北海道であればどこもだいたい似たようなものでしょう。

江別コロニーでは今年も数日前の観察で50つがい弱の営巣を確認しました。この冬はことのほか暖かく雪も早々に融けましたから飛来時期も早いのではと思っていましたが、蓋を開けてみればほぼ例年通り。カレンダーを持っているわけでもないのに、彼らの季節を読む能力にはいつも感心させられます。逆に言えば、人間の季節を感じとる能力はほんと頼りにならない、ほんの表面的なものでしかないのかもしれませんね。

アオサギを救うために

現在の日本では、人間の無知、無理解のせいで、相当多くのアオサギが正当な理由もなく命を奪われています。そして、その惨状に大きく荷担しているのが有害鳥獣駆除の名で行われる大規模な捕殺です。これが正当な理由の駆除ならまだしも、そうでない出鱈目な駆除があまりに多いのです。その原因は至近的には駆除の許認可がいい加減になされていることにあります。そのことについては「アオサギの有害駆除に係る問題点に関する報告」にかなり詳しく書いたつもりです。興味のある方はぜひご一読ください。鳥獣行政のあまりの杜撰さにびっくりされることと思います。

とはいえ、この問題に対する非難の矛先を鳥獣行政の担当者に向けたところで事態は改善しません。問題は鳥獣行政システムそのものなのです。鳥獣行政に予算と人を今よりはるかに多くつぎ込まない限り今の状況はなかなか変わらないでしょう。ともかく、やらなければならないことに対してお金や人など必要なリソースが全然足りていないのです。いい加減な許認可業務もその結果としての理不尽な駆除もおおもとの原因を求めると全てそこに行き着きます。

しかし、だからといって手をこまねいていても仕方がありません。行政が自らできることをやってない部分については改善を求めていかなければなりませんが、それによって改善されることはたかが知れています。もっと大きく根本から直していこうとすれば行政担当者の鳥獣に対する意識改革がどうしても必要です。そして、それは我々一般人の意識改革でもあるわけです。結局、行政は世間の意識を反映しているのに過ぎませんから。世間の関心が低い問題に関しては行政も動かないわけで、当然のことながらそういうところにはお金も人も集まりません。行政の意識を変えようとすれば、まずは我々の意識を自ら変えていくしかないのです。

残念ながら、現状では野生動物の問題、とりわけ駆除の問題については人々の関心は決して高いとは言えません。これは当然のことで、被害がある人にとっては深刻な問題だけれども、そうでない大多数の人たちにとっては全く何の関係もない問題だからです。駆除の問題を自分に被害があるか無いかの面で捉える限り、この閉塞した現状は変えようも変わりようもありません。

そこで、今回は少し別の側面、より多くの人たちが関心をもつと思われることから駆除の問題にアプローチしてみたいと思います。端的に言えば動物の命をどう捉えるかということです。あるいは動物の権利についてどう考えるかという問題です。このことについてはじつは上記報告書の中でもわずかに触れています。「4.(9) コロニーでの駆除に係る問題」と「4.(10) 繁殖期の駆除に係る問題」がそれです。驚くべきことに、現在の鳥獣保護法ではコロニーでの駆除や繁殖期の駆除は明確には禁止されていないのです。もっとも、自治体によっては独自にこれらの行為を禁止するという規定を設けているところもありますし、こうした行為は鳥獣保護法の精神に反すると主張する担当者もいらっしゃいます。私もそう思いますし、鳥獣保護法の精神云々という以前に動物倫理上許されてはならない行為だと思っています。しかし、残念ながらそのように考えている担当者はごく僅かで、多くの自治体が繁殖期にコロニーで駆除するような乱暴な行為を許しているのです。

問題は、駆除を倫理的な側面で捉えようとする土壌が現在の鳥獣行政に無いことです。もっともこれは行政に限ったことではありません。生態学など実証科学に基づいたものしかまともな意見として受け入れず、動物の命だとか権利だとか言うと、その言葉だけで感情論として一蹴するという、何かにつけまことに幼稚で嘆かわしい雰囲気が今の日本にはあります。おそらくこの国で動物倫理の問題について自分なりの意見をもっている人はごく僅かだと思います。けれども、世界的に見ればこの種の問題は哲学の分野でも法学の分野でも極めてホットなトピックなのです。そして、最近ではそうした考えが実社会にも徐々に反映されてきています(事例123)。こうした事例があるからといって直ちにアオサギの人権がどうこうというわけではありません。しかし、駆除の問題を考える際に動物倫理的なアプローチの重要性が今後ますます高まってくるのは間違いないでしょう。

こうしたアプローチは言わば動物に対するモラルを見つけようとするものですから正解があるわけではありません。しかし、究極のコンセンサスは得られなくても、それぞれの局面で共通の認識を見つけていくことは可能です。そのためにはさまざまな意見を真面目に吟味することが何より必要ですし、吟味すればするほど動物に対する世間の認識は柔軟で強靱なものになります。そして、そのように世間の野生動物に対する関心を高めていけばいくほど鳥獣行政は駆除の問題により大きな関心を払わざるを得なくなり、結果的に不用な駆除は減っていくはずです。

どのくらい先のことになるか分かりませんが、いずれはアオサギにも何らかの権利が認められる、そういう時が来るでしょう。と書くと、たいていの方は何を馬鹿なことをと呆れられることと思います。実際、動物の権利の問題は簡単に説明できるものでも簡単に納得できるものでもありません。しかし、難しい問題だから、あるいは余計なことを言うと変な人と思われるからといって口をつぐんでいたのでは変わるものも変わりません。それは結局、杜撰な鳥獣行政や不当な駆除を間接的に助長することになってしまいます。権利というのは欲しい欲しいと声に出さなければ手に入りません。人間に理解できる言葉をアオサギがもたない以上、そうした彼らの訴えは我々が代弁するより他ないのです。

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