アオサギを議論するページ

あれからひと月

地震と津波の日からひと月が経ちました。こちらにアオサギが渡ってきたのがちょうどあの頃。今年は春の嵐に見舞われることなく、比較的順調に営巣活動が行われています。今では抱卵態勢に入るサギも徐々に増え、コロニーの雰囲気は少しずつ落ち着いてきたようです。

今回は、震災に関連してこれまでに感じたことを備忘録的に書き留めておこうと思います。とてつもない人的被害があった中で、そのことを差し置いて震災をアオサギに関連づけて書くことにはひと月経った今でもまだ抵抗があります。けれども、アオサギも人と同様、被災者であることは間違いありません。こういうサイトをやっている以上、やはり無視するわけにはいかない、そういう思いで書きます。

あの日の地震と津波はいともあっさり人々の生活の場を更地に変えてしまいました。人間の存在など地球はこれっぽっちも気にかけてないということを強烈に思い知らされる出来事でした。その点では人もアオサギも同じ。地球から見れば、どちらも地表面にしがみついてかろうじて生きているどうでも良い存在に過ぎません。どうでも良いかどうかはともかく、人もアオサギも同列であることは間違いないと思います。人は普段、アオサギや他の生き物に対して、あたかも自分たちがその支配者であるかのように振る舞っています。けれども、いざ地球が相手となると、自分たちが地上での優位性の拠り所としていたものは全て剥ぎ取られて、アオサギや他の動物たちと何ら変わらない、人間というただの生き物として対峙せざるを得なくなるんですね。そうなれば、飛んで逃げるという選択肢があるアオサギのほうがむしろ素質的には優れていると言えるかもしれません。結局、我々人間の優位性をどこかに認めるにしても、それは特定の条件下でのみ意味をもつ相対的なものでしかないんですね。ただ、そういう特定の条件がたまたま長く続くものだから、人間の優位性を絶対的なもののように勘違いしてしまう。それは大間違いです。

「絶対」と言えば、原発が安全にからめてこの言葉を使うことにずっと腹立たしさを覚えてきました。本来、絶対という言葉は確率の問題ではないはずなんですね。万一という仮定が入る時点でもはや絶対ではない。しかも、原発事故は万一どころか、世界の原発四百数十基(箇所数でいうと百数十ていどでしょうか)のうちすでに3ヶ所で重大事故が発生し、小さな事故はしょっちゅうというような大変な高確率で起きているわけです。よくこれで絶対安全などと言えるものです。今回これだけのことが起こってなお中途半端な危機感しか持てないようだと本当に末恐ろしいことになると思います。

さて、アオサギのことです。彼らは20キロ圏外への避難指定など聞き入れてはくれません。今この瞬間にも、福島第一原発のすぐ傍らで毎日多量の放射線を浴び、何の恐れもなく汚染された魚をぱくぱく食べているかもしれません。ひと月前、彼らはちょうど渡りの最中でした。私が普段見るのは北海道のアオサギですが、中には福島の太平洋岸を北上し、被曝しながらこちらに辿り着いたサギもいるかもしれません。こう言うと被災されている方には本当に気の毒ですが、原発事故によって我々人間が困るのは自業自得です。しかし、それはアオサギや他の生き物には関係のないこと。彼らのことはいったい誰がどうやって責任をとってくれるのでしょう? 本当に大迷惑な話です。

地球に優しく、という言葉が大嫌いです。何と傲慢な言葉なのだろうといつも苦々しく思ってきました。だいたい、その反対のことをやっているところほど、より声高にこのフレーズを叫んでいます。地球に優しいクリーンなエネルギーなどと言ってるところはその最たるものでしょう。何でも管理できるという、その上から目線の態度が間違っているのです。地球レベルで考えれば、所詮、人もアオサギも同列に並べられる、ただのひ弱な生き物に過ぎません。我々がそのことを謙虚に受け入れることがなければ、同じ過ちは何度でも繰り返されると思います。人類が馬鹿でないことを願いたいものです。

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